スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

リコー杯女流王座戦&齟齬

2011-10-22 18:51:40 | 将棋
 新設された第1期女流王座戦決勝五番勝負第一局。3勝した方が初代女流王座を射止めることになります。オープンということで清水市代女流六段に加藤桃子奨励会1級という興味深い対戦。公式戦初対局。
 振駒により清水六段の先手。奨励会1級の対局の記録を奨励会三段が録るというのは考えてみれば変な話かもしれません。相掛りで先手が浮飛車,後手が引き飛車の形。中住まいの先手から速攻。角交換となり,先手がその角を打った代償に金銀交換。激しい戦いですが前例はあり,この後,第1図で先手が前例から離れました。
                         
 ここから後手が☖7六歩と突き出したのに対して先手も☗3四歩。☖7七歩成☗3三歩成☖7八と☗4二と☖同金☗2二角成☖7九と☗2一馬と駒を取り合っての猛烈な攻め合いに。そこでようやく後手が☖3ニ歩(第2図)と受けました。
                         
 ここで先手も☗8六歩と受けたのですが,この手が緩手で,あとは後手が攻め合って勝ちとなりました。第2図では先手も攻め合うほかなかったですし,それで悪いならばそれ以前の攻め合いにすでに問題があったということになりそうです。
 加藤1級が先勝。第二局は来月3日です。

 ここまで検討してきますと,第二部定理三九証明と,第二部定理九系との間に,何らかの齟齬があるのではないかと感じられるようになるのではないかと思います。確かに第二部定理九系で示されている事柄と,第二部定理三九,この場合には第二部定理三八を含めてもいいですが,これらの定理Propositioで証明されている事柄は,異なった事柄ではあります。しかし構造的にはあたかも同一であるように思えるのに,それが異なったあり方で示されているように思われるからです。
 第二部定理九系というのは,観念の対象ideatumの中に起こることは,その観念ideaを有する限りで神Deusのうちにあるとされています。何度かいっているように,僕はこのことが第二部定理九から帰結するとは考えませんが,第二部定理七を実在的に考えれば,確かにそうでなければなりません。したがって,XがAのうちに起こるなら,Xの観念はAの観念を有する限りで神のうちにあります。そこでAを人間と考えるなら,ただこれだけのことで,Xの観念はAの精神mensのうちで十全adaequatumであるということになります。第二部定理一二は,それをどう理解するのかという問題は今でも残っていますが,少なくともこうして証明されているのですから,スピノザがそう考えているということは間違いないところです。
 一方,XがAという人間に特有の要素であるなら,同じようにXの観念はAの観念を有する限りで神のうちにあります。よってここでもAを人間と考えるなら,Aの精神のうちにXの十全な観念があることになります。このことは確かに第二部定理三八でも第二部定理三九でも,結果的には証明されているのですから,そのこと自体は問題にはなりません。ところが,第二部定理九系の場合,ただ単にAの精神のうちでXの観念は十全であると示されているのに対し,共通概念notiones communesの場合には,同じXという要素をもつほかの物体corpusにAの身体corpusが刺激されることによってはじめてAの精神のうちにXの十全な観念idea adaequataが発生するというように証明されているのです。逆にいえば,この刺激がなければXは共通概念としてAの精神のうちに発生しないということになり,これは第二部定理九系の説明と明らかに異なっているといえるのではないかと思うのです。
コメント
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