スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ドバイ国際競走&作業所からの連絡

2011-03-28 18:54:31 | 海外競馬
 今年のドバイ国際招待競走は現地時間の26日の開催。日本からは3レースに5頭が招待されました。
 まずタペタ1900mのUAEダービーGⅡには3戦2勝のレーザーバレット。発走後は中団につけましたが,徐々に位置取りを下げ,その後もとくに見せ場なく9着。
 喉も鳴っていたようですが,この馬は条件戦を連勝した後,オープンでは負けていましたし,レース振りも前半のスピードに欠けるタイプと思われましたので,致し方のない結果であったと思います。
 芝2410mのドバイシーマクラシックGⅠには1月の日経新春杯で重賞2勝目を上げたルーラーシップ。前半は好位の外につけましたがかなり折り合いを欠いてしまい,向正面で意を決して先頭に。そこからはある程度は落ち着いて走っていたように見えましたが,慣れないレース振りも影響したでしょう,残り200mあたりで後続に飲み込まれ,6着。
 チャンスが大いにあると考えていましたし,個人的にも期待している馬なので残念でした。ただ,気性面の難点が解消されないと,大レースでは今後も厳しいかもしれません。
 メーンとなるタペタ2000mのドバイワールドカップGⅠには,昨年のJRA賞年度代表馬のブエナビスタ,最優秀3歳牡馬のヴィクトワールピサ,ジャパンカップダートフェブラリーステークスの大レースを連勝中のトランセンドの3頭。トランセンドが主張して逃げ。残りの2頭は発馬がいまひとつでブエナビスタが後方2番手,ヴィクトワールピサは最後尾。トランセンドがマイペースに落としたのをみて,ヴィクトワールピサが向正面で外から一気に2番手に。直線はこの2頭の競り合いとなり,残り200m付近ではっきり前に出たヴィクトワールピサが優勝。2頭の間を割ったMonterosso,外を伸びたCape BlancoとGio Pontiの追撃を凌いでトランセンドも2着に粘って日本馬のワンツー。ブエナビスタは8着。
 勝ち時計が2分5秒94と遅くなったのは,馬場状態とペースの双方が要因になったと思います。ヴィクトワールピサは力任せにレースをするタイプで,馬場状態は向いたでしょう。また,向正面で一気に進出した騎手の判断も素晴らしかったと思います。騎手の意のままに動いたり抑えたりできるというのは,僕は競走馬の能力の一面と考えますので,馬も高い能力を示したといっていいと思います。
 トランセンドも馬場もペースも向きました。事前の評価もあまり高くなく,執拗にマークされることがなかったのも幸いしたかもしれません。日本のダートは異質な馬場ですが,この馬は時計が出るダートでよりよいレースをしていましたので,ここでも十分に戦えるだけの下地はあったと思います。世界に通用する日本のダート馬の1頭でしょう。
 ブエナビスタはヴィクトワールピサが動いたので途中から最後尾での競馬。結果的にもうこの時点でアウトでした。直線もなかなか開かず,追えてからはかなり伸びていますが,能力を十全に発揮したとはいえない,残念なレースでした。馬場は向かなかったかもしれませんが,もう少し何とかできた筈だと思います。
 ドバイワールドカップを優勝したヴィクトワールピサは昨年の有馬記念以来の大レース3勝目。馬の国籍における日本馬の海外重賞制覇は昨年のマクトゥームチャレンジ3GⅡ以来,大レースは2007年のシンガポール航空国際カップGⅠ以来,ドバイでの大レースは同年のドバイデューティフリーGⅠ以来。ドバイワールドカップGⅠは初勝利。Victoireはフランス語で勝利。父はネオユニヴァース,母はホワイトウォーターアフェア
 騎乗したイタリアのミルコ・デムーロ騎手の日本馬での大レース勝利は有馬記念以来。管理している角居勝彦調教師も有馬記念以来の大レース制覇。海外重賞は2006年のメルボルンカップGⅠ以来。ドバイではこれが初勝利。
                         

 僕が鶴ヶ峰から帰宅したとき,母と伯母がふたりでテレビを視ていたというのは,妹は不在であったということを意味します。通常であればこの時間なら帰っているのが普通ですが,まだ帰宅できずにいたのです。実は僕が少しでも早く家に帰ろうとしたのでは,こういうケースも想定されたから。迎えにいかなければならないということが十分に考えられましたし,バスが動いていればよいですが,妹を迎えに行くための市営バスは止まっているようでした。また,仮に運行を再開したとしても乗れるかどうかは分かりませんから,最悪の場合は歩いて迎えにいかなければならないということもあり得たのです。もしもそうなると母には負担が大きすぎますから,僕が行くということになるでしょう。地震発生時には僕は相模鉄道の車内で,もちろん市営バスの運行状況などについては何も知り得ていませんでしたが,その時点で,徒歩で妹を迎えにいく可能性についてはすでに頭の中に入っていました。
 実は僕が帰宅した時点では,妹がどういう状況であるかは母も把握していませんでした。地震発生時は時間から考えても作業所にいた筈ですが,もう帰宅の途についているのか,それともまだ作業所で待機しているのかも分かりませんでした。これは通信手段が悪化していた影響で,家と作業所との間で連絡がつかなかったからです。
 ようやく電話が繋がり,最初の連絡が入ったのは5時半頃。このときに分かったのは,地震発生時に作業所にいたすべての人間は,その後に徒歩で作業所を運営している施設の方に移動して待機しているということ。そしてもしも帰るという場合には迎えに来ることが必須であるということ。ただし迎えが困難である場合には施設の方に宿泊することも可能であるということでした。
 連絡を受けたのは母で,僕はこの話を聞いて,迎えに行かれるのであれば行った方がよいだろうとは思いました。母も同じ考えだったようです。ただ,行かれるかどうか,つまりバスが運行しているかどうかがこの時点では不明。もちろん迎えに行くだけならば,徒歩でも可能ですが,この場合は帰りも徒歩になるでしょう。施設は作業所よりもさらに遠いですから,妹がその距離を歩いて帰れるかどうかにも不安がありました。したがってこの時点ではこちらももう少し待機し,次の連絡を待つことにしたのです。
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