スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東日本大震災復興支援京王閣記念&リンク

2011-10-25 18:59:22 | 競輪
 ビッグがしばらくありませんから記念競輪が続きます。先週末からは京王閣記念で今日が決勝でした。並びは伏見に稲村,平原-後閑-朝倉の埼京,新田-勝瀬の南関東,浅井-村上の中部近畿。
 浅井の前受けで,3番手に平原,6番手に新田,8番手に伏見という周回だったようです。伏見が上昇して残り2周のホームで浅井を抑えて誘導の後ろに。これに続いた平原に新田ラインまで加わって上昇,バックで平原は一旦は3番手に入りましたが打鐘を待って発進。また新田がこのラインに続き,6番手に伏見,8番手に浅井で一列棒状。このままバックに入り浅井も発進しましたが先に新田の捲り。これに3コーナーから後閑が併せて出ると外の新田は苦しくなり,そのまま抜け出した後閑の優勝。マークの朝倉が2着に続き,3着は外を伸びた稲村。
 優勝した東京の後閑信一選手は昨年の京王閣記念以来の記念競輪20勝目。一昨年も優勝していて当地は3連覇。さらに2007年も優勝で,ここのところは地元ばかりで記念競輪を制覇しています。ここは4分戦でラインも長く,メンバー的に平原の先行が濃厚。浅井をうまく後方に置くような展開に持ち込むなど,ラインが一丸となっての優勝であったように思います。

 これに対して,第二部定理三九証明を吟味してみるならば,ここに示されていることが,人間の精神のうちで単純に自己完結しているといえないのではないかと思えます。というのは,この場合にはその人間の身体の全体および部分に含まれているものが,その同じものをやはり全体と部分とに含んでいるような外部の物体によって刺激されることで,この観念がその人間の精神のうちに発生するということになっているからです。逆にいうなら,これはこうした刺激を受けないのであれば,この人間の精神のうちにはそれの観念は発生しないという意味ですから,やはりその人間の精神のうちで自己完結しているとはいい難いのではないかと思えます。そして,もしもある観念が人間の精神のうちに発生する際に,それが自己完結しているのであれば,それはその人間の精神の純粋な思惟作用であるとみなし得るのですから,自己完結しているとは考えられないこの場合には,やはりそれはその精神の純粋な思惟作用であると結論することにも無理があるのではないかと僕は思います。よって,おそらくマシュレは人間の精神による共通概念の獲得というのを,その人間の精神による純粋な思惟作用であるとはみなしていないのですが,その点には僕も同意することができるのです。
 この,人間の精神による共通概念の獲得が,その人間の精神の純粋な思惟作用ではないということに関して,『エチカ』にその手掛かりを求めようとすれば,第五部定理七の証明でスピノザが示していることをあげることができるのではないかと思います。この定理自体は現在の考察とはまったく関係がありませんから省略しますが,ここでスピノザは,明らかに第二部定理一七の人間の精神による事物の表象と,第二部定理三八の共通概念の獲得とをリンクするような仕方の説明をしているとしか僕には考えられません。人間の精神が外部の物体を表象するとき,とりわけ表象の種類として知覚するときには,外部の物体の現在が前提されていて,これは自己完結していませんし,純粋な思惟作用でもありません。そしてそれとリンクするような形で共通概念の獲得を説明しているのは,やはりスピノザ自身も,人間の精神による共通概念の獲得は,ここでいうその人間の純粋な思惟作用とは認めていなかったからではないかと思います。
コメント
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