スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&相違の在処

2011-10-14 18:41:45 | 将棋
 いよいよ開幕した第24期竜王戦七番勝負第一局。対戦成績は5勝5敗の五分。
 振駒で先手は渡辺明竜王。丸山忠久九段の一手損角換り1-Ⅱ。先手が棒銀から5筋の位を取る将棋に。
                         
 ここで後手は△6五歩と6筋の位を取ったのですが,これに先手が反応。▲4六歩△同銀としてから開いた空間に▲6四角と打ちました。結果的にこの角が金銀との二枚換えになり,先手の駒得に。封じ手の局面でおそらく差がついていて,ここから攻め合うのも有力だったみたいですが,駒得ですから実戦のように受けに回るのは自然ですし,確実だったと思います。後手の攻めを切らせた先手の勝ちとなりました。
 渡辺竜王が先勝。なんだか気持ち悪くなるような快勝ですが,気を緩めてしまうということもないでしょう。第二局は25日と26日です。

 これでマシュレと僕との間にあると考えられる相違点のうち,第一の場合がスピノザの哲学においては現実的には発生しないということを十分に明らかにすることができたと思います。もしもそれが現実的には発生しないのであるとすれば,それに関する相違などは初めからないということになるでしょう。実際に,ある人間の精神の純粋な思惟作用によって,その人間の精神のうちに混乱した観念が発生するということはないということは,マシュレも同意すると思われますから,ここの部分では本当はマシュレと僕との間にも何の相違もないと考えてよいでしょう。
 したがって,問題となってくるのは第二の場合です。すなわち,それがその人間の純粋な思惟作用であるとは考えられない,あるいは少なくとも純粋な思惟作用であるとはいい難いような一面を含んでいる場合に,その人間の精神のうちに十全な観念が発生してくるという場合です。そして僕は,こうしたことは第一の場合とは異なり,確かに現実的に存在するのだと考えています。そしてその部分にこそ,マシュレと僕との間の本当の相違点があると思うのです。
 このときに僕が想定している人間の精神の思惟作用こそ,第二部定理三八第二部定理三九で示されている,人間の精神による共通概念の獲得,あるいは人間の精神のうちにおける共通概念の発生なのです。僕は前回のテーマの考察の中で,人間の精神による神の属性の認識,この場合は第二部公理五によりあくまでも延長の属性および思惟の属性の認識ですが,それを共通概念による認識という観点から仮説を立てて説明しました。そしてマシュレは,人間の精神による属性の認識について,これを人間の精神の能動でも受動でもないような認識という観点から説明しています。このことから考えてみても,人間の精神が共通概念,この場合には実際にこのことについて考察する契機となった,属性の共通概念に特定せず,もっと一般的にすべての共通概念といっていいと僕は思っていますが,その共通概念の獲得のあり方をどのように考えるのか,あるいはどういった観点からみるのかという部分に,大きな隔たりがあるとみてよいのではないかと思います。
コメント
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