名物のひとつにバナナの叩き売りがある門司港。第52期王位戦七番勝負第四局はその門司港での対局。
先手の広瀬章人王位はここも居飛車を選択。羽生善治二冠は横歩取り。先手が誘導するような形で8五飛型の中原囲いに先手の中住まいに。昨年の8月にB級1組の順位戦で指され,後手が勝った将棋と同じように進展。先手から誘ったような感じなので何か新しい手段が出るのではないかと思われましたが95手目(第1図)まで前例と同じに進みました。
前例はここで△6一玉と逃げ,それでも後手が勝ったのですが,この将棋は△5三同銀。ただ,この方が後手としてはさらに優るとのこと。実際にその通り,先手は粘るだけのような将棋になってしまい後手の勝ちで終っています。
情報の差で勝負が決したとしか考えられない不思議な将棋。これで2勝2敗となりました。第五局は23日と24日です。
テーマとして設定した第三部定義二の立場というのは,能動および受動についてその本性は示しているけれども,その発生を含んでいるとはいえないというのが僕の考え方でした。しかしここまでの探求により,現実的に存在するどんな個物にも能動は発生するし,受動も同様に発生するということを結論することができました。これにより,第三部定義二というのを,実在的な定義として解釈するための条件が整ったということになります。そこでいよいよこの定義そのものについての本格的な考察へと移行していくわけですが,そのためにまず,第三部定義二の意味というのをしっかりと確認しておくことにします。というのはスピノザはこの定義というのを,前定義,すなわち第三部定義一に依拠する形で記述していますから,第三部定義二の考察のためには第三部定義一を通過しないというわけにはいかないようになっているからです。
第三部定義一というのは十全な原因causa adaequataと部分的原因causa inadaequataについての定義です。岩波文庫版の『エチカ』では前者は妥当な原因,後者は非妥当な原因と訳されていますが,このブログにおいては十全な原因と部分的原因を用いています。これは訳し方の相違ですから問題にはなりません。
この第三部定義一もまた,明らかに十全な原因と部分的原因の本性だけを示していて,各々の発生については含まれていないような定義であると僕は理解しています。ただしこの定義は,必ずしも実在的な意味を保持しなければならないというものではなく,名目的なものであっても構わないと思いますので,それで問題はないものと考えます。第一部公理三というのが示しているのは,何の原因も与えられなければ結果は生じないということであり,したがってもしも何ら原因というものがないとしたら,自然のうちには何事も生じないでしょう。しかしこれをいうのは不条理ですから,結果に対して原因といわれなければならないような何かが自然のうちにあるということは確かだと思います。また,これは第一部定理一六からもそうでなければならないといえると思います。その原因について,それが十全な原因といわれるのか,それとも部分的原因といわれるのかということが説明し得るならそれで十分であるだろうと僕は考えます。
先手の広瀬章人王位はここも居飛車を選択。羽生善治二冠は横歩取り。先手が誘導するような形で8五飛型の中原囲いに先手の中住まいに。昨年の8月にB級1組の順位戦で指され,後手が勝った将棋と同じように進展。先手から誘ったような感じなので何か新しい手段が出るのではないかと思われましたが95手目(第1図)まで前例と同じに進みました。
前例はここで△6一玉と逃げ,それでも後手が勝ったのですが,この将棋は△5三同銀。ただ,この方が後手としてはさらに優るとのこと。実際にその通り,先手は粘るだけのような将棋になってしまい後手の勝ちで終っています。
情報の差で勝負が決したとしか考えられない不思議な将棋。これで2勝2敗となりました。第五局は23日と24日です。
テーマとして設定した第三部定義二の立場というのは,能動および受動についてその本性は示しているけれども,その発生を含んでいるとはいえないというのが僕の考え方でした。しかしここまでの探求により,現実的に存在するどんな個物にも能動は発生するし,受動も同様に発生するということを結論することができました。これにより,第三部定義二というのを,実在的な定義として解釈するための条件が整ったということになります。そこでいよいよこの定義そのものについての本格的な考察へと移行していくわけですが,そのためにまず,第三部定義二の意味というのをしっかりと確認しておくことにします。というのはスピノザはこの定義というのを,前定義,すなわち第三部定義一に依拠する形で記述していますから,第三部定義二の考察のためには第三部定義一を通過しないというわけにはいかないようになっているからです。
第三部定義一というのは十全な原因causa adaequataと部分的原因causa inadaequataについての定義です。岩波文庫版の『エチカ』では前者は妥当な原因,後者は非妥当な原因と訳されていますが,このブログにおいては十全な原因と部分的原因を用いています。これは訳し方の相違ですから問題にはなりません。
この第三部定義一もまた,明らかに十全な原因と部分的原因の本性だけを示していて,各々の発生については含まれていないような定義であると僕は理解しています。ただしこの定義は,必ずしも実在的な意味を保持しなければならないというものではなく,名目的なものであっても構わないと思いますので,それで問題はないものと考えます。第一部公理三というのが示しているのは,何の原因も与えられなければ結果は生じないということであり,したがってもしも何ら原因というものがないとしたら,自然のうちには何事も生じないでしょう。しかしこれをいうのは不条理ですから,結果に対して原因といわれなければならないような何かが自然のうちにあるということは確かだと思います。また,これは第一部定理一六からもそうでなければならないといえると思います。その原因について,それが十全な原因といわれるのか,それとも部分的原因といわれるのかということが説明し得るならそれで十分であるだろうと僕は考えます。