スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&マシュレとの争点

2011-08-30 19:13:35 | 将棋
 今期もまたタイトルの行方を決する舞台は陣屋へ。第52期王位戦七番勝負第六局。
 広瀬章人王位の先手で,相振飛車の力将棋に。羽生善治名人が早々に決断の角打ち。後手から手を作らなければならないような将棋となり,封じ手の段階で消費時間にかなりの差がつきました。2日目に入って先手が馬を作って角との差だけ優位に立ったように思われましたが,その後の指し方にやや中途半端なところがあったか後手の猛攻を食らう展開に。下図から観戦。
                         
 ここは先手が受けきるか後手が攻めきるかの勝負。▲同金△同角成はあり得ないので▲5九金と引いたのは当然。攻めの継続を図らなければならない後手は△4六桂。▲3九歩はこの一手と思います。△5八桂成もほかの手は考えられません。ここで先手は手抜いて▲5一とと寄りました。一直線には攻め合えませんので一旦は取る一手。どちらもあったと思いますが実戦は△同銀でした。▲3ニ飛が継続の一手と考えそれを検討していましたが▲4六角。△同角▲同飛△5九成桂までは一本道でしょうか。2段目に飛車を打つ手を検討していましたが▲5三桂(第2図)でした。
                         
 攻め合う手と逃げる手の両方が検討対象でしたが△5二金。ここも幅広く考えましたが▲2六角は予想していませんでした。△5六金は予想の一手でしたが▲4八飛と逃げたのは少しも考えていませんでした。△5八成桂を検討し出したらすぐに△5七角。この二手の交換は後手が得をしたように感じられ,後手が勝てそうな局面になったように思いました。▲6一桂成△同玉(第3図)まで進んだところで先手から有力な継続手段がないとみて検討終了。
                         
 結果的には細い攻めが繋がる形になって羽生二冠が勝利。決戦の最終局は来月12日と13日です。

 なぜ僕があるものの作用ないしは働きは,必ず能動的であるか受動的であるかのどちらかであると理解することについて,その旗幟を鮮明にするために丹念に探求を継続してきたのかといえば,それは前回のテーマであり,今回のテーマのきっかけとなった第一部定義四に関連する属性についてのマシュレの分析と関係しています。
 もちろんこれは,あくまでも僕が理解する限りでのマシュレの分析ではあります。しかしマシュレは『ヘーゲルかスピノザか』の当該部分において,知性による属性の認識に関して,それは能動的でも受動的でもないということをはっきりと記述しています。そしてこの見解が,属性に関する訴訟過程からマシュレの結論を導き出すために,非常に重要な役割を担っているように僕には思えるのです。そこでここからは今回の考察の主題のうち第一のものからは完全に離れ,第二のものの方を考えていきます。
                         
 マシュレはあくまでも人間の精神による事物の認識,さらに限定するならば,とくに属性の認識についてのみ言及しています。したがって,たとえば人間の身体のある運動とか,人間精神が属性以外の何かを認識するというような場合には,それはすべて能動的であるか受動的であるかのどちらかに分けることができると考えている可能性は否定できません。そもそもマシュレは人間の精神による属性の認識に関して考察する中でこのようなことを主張しているわけで,能動受動の何たるかについて分析を行おうと試みているわけではありませんから,その点についての言及がされていないのは当然といえば当然です。よってその点に関するマシュレの立場というのは分からないというほかなく,これを争点とすることはできません。
 ただし,属性の認識に関してそれは能動的でも受動的でもないと主張するのであれば,少なくとも属性以外の何らかのものの認識について,能動的な認識というのはあるし,また受動的な認識というのもある,というようにマシュレは考えていると僕は思います。そうでなければ初めから属性の認識について,能動的でも受動的でもないというような主張をする必然性がないと思われるからです。そこでまず,どのような認識であれば,マシュレはそれを能動的とみなすのかということを考えていくことにします。
コメント
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