スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

知的整理&神との関係

2011-08-12 20:52:03 | 将棋トピック
 たとえばある事柄を認識することに,基礎的なことから複雑なことまで10の段階があるとします。9の段階まで達して10を目指すためには,9だけをクリアしていればよいというものではなく,1,2,3と順にひとつずつクリアしていく必要があります。僕はそうしなければ10に達することはできないと考えています。これは哲学の理解を進めていくにあたって心掛けていることです。ここでは次の段階に至るために前の段階をクリアしていくことを知的整理といっておきます。
 これは知的作業だけでなく,身体の新しい運動技能の習得の場合にもたぶん当てはまります。野球選手がキャッチボールのような基礎的段階を繰り返すのは,それなくしてはさらなる技術の向上は望めないからだと思います。
 たぶん将棋にもこうしたことがあるのです。王位戦第四局はそうしたものだったのかもしれません。僕がこのことに気付いたのは,片上大輔六段がこの将棋を知の整理と表現していたからです。
 9の段階から10の段階を目指すための知的整理は,3の段階にしか達していない者には意味が分かりません。僕がこの将棋を不思議な将棋としか感じ取れなかったのは,そのことが関係しているからです。タイトル保持者同士が知的整理を行う場合,その段階はかなり高度なものである筈です。プロであってもそのことの真意を十全には理解することができない棋士がいたとしても不思議ではありません。そうであるなら僕にそれが理解できなかったのは,むしろ当然だといえます。
 知的整理は知的段階を高めていくための作業としては必要不可欠なもの。そして同じくらい重要なのは,当事者がそのことを意識しているかどうかです。もしもそうした意識なしに,ただ漠然と反復作業を繰り返しているだけならば,知的進歩を望むことはできないでしょう。そしてその作業はもはや知的整理とはいえません。

 いってみればこのあたりのことは基本中の基本に属するわけですが,ここは大事なところなので,もう少しだけ考察を深めておくことにします。『エチカ』では第一部定理一六にあるように,すべてのものは神がなくてはあることも考えることもできないということになっています。したがって事物の認識,すなわち事物の観念について考える場合には,その観念が神のうちでどのように生じているのかということが非常に重要になってくるのです。なお,第二部定理七系の意味,すなわち神のうちにある観念はすべて十全な観念であるということに前もって注意しておいてください。
 再び第一部公理三第一部公理四を援用し,Aが十全な原因となってXが発生する場合,Xの十全な観念はAの十全な観念のみに依存しますから,神はAの観念を有する限りでXを十全に認識することとなるでしょう。ところで,Aの観念というのは,Aの精神にほかなりません。これはAというのをある人間の身体であると仮定すれば,第二部定理一一第二部定理一三から明らかです。よってこれはAの精神のうちにXの十全な観念があるという意味に理解して差し支えないのです。よってAが人間であると仮定すれば,このAという人間の精神のうちにXの十全な観念があるということになります。これがAの能動です。
 一方,AとBがそれぞれ部分的原因となってXが発生するという場合には,Xの観念というのは,AとBの各々の観念を有する限りで神のうちにあるということになります。したがってこの場合に,Aというのをある人間と考え,Aの観念というのをAの精神であると仮定すれば,このAの精神のうちにはXの十全な観念があることはできません。なぜならXの十全な観念は,この場合には,Aの精神の本性を構成するとともに,Bの観念を有する限りで神のうちにあるということになっているからです。したがって,Aの精神というのを神と関連付けずにただそれ自体でみるならば,Aの精神のうちにもXの観念はある,いい換えればAはXを認識はするでしょうが,その観念は十全な観念ではなく,むしろ混乱した観念であるということになります。これがAの受動を意味します。また,同様の方法で説明することにより,これは同時にBの受動でもあるという意味になります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする