スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東日本大震災復興支援しらさぎ賞&認識論と実在論の問題

2011-04-29 18:57:03 | 地方競馬
 斤量差を生かして格下馬が活躍する傾向があったしらさぎ賞
 先行争いが激しくなりましたが逃げたのはスズリスペクト。エロージュが続いてその後ろがザッハーマイン。ネオグラティアは中団の内でハーミアは後方。最初の600mは35秒7のハイペース。
 向正面でもピッチは落ちず,ついていけない馬も出始めました。ザッハーマインは3コーナーで2番手に上がり,逃げたスズリスペクトと並ぶと,後ろとの差が開きました。手応えには差があり,直線に入ってザッハーマインが楽に抜け出すと,後方から1頭だけ追ってきたプリマビスティーとの差はむしろ縮まりましたが,並ばせるところまではなく2馬身半の差をつける圧勝。プリマビスティーが2着で,逃げたスズリスペクトがさらに7馬身も遅れたもののぎりぎりで3着を確保。
 優勝したザッハーマインは暮れの東京シンデレラマイル以来の南関東重賞3勝目。ここははっきりと能力が上位でしたので順当といえば順当な勝利。もう少し長い距離もこなしていますが,本来的な適性はこのくらいにあるものと思われます。今年度も南関東ではこの路線の中心でしょう。同じ一族にはグラスワンダーなどがいます。
 先日,地方競馬のみの勝利数で現役トップに立った大井の的場文男騎手は先々週のクラウンカップに続く南関東重賞制覇。しらさぎ賞は今の条件になる以前の1999年に勝っているので記録上は2勝目。船橋の出川克己調教師は現在の条件となったこのレースとの相性がよく,2007年,2009年に続く3勝目です。

 結局のところ第一部定義四の立場というのは,それ自体だけでみるならば,実在的と名目的の問題は解決し得ず,むしろ『エチカ』での論述において属性ということばがどのような観点から用いられているのかということに依拠して,両様に解釈することが可能であるということを僕自身の結論として,この問題に関する探究を終えることにします。よって今度はこの定義に残されたもうひとつの問題,すなわち認識論と実在論の問題へと移ることにします。
 この問題は,実際にスピノザの哲学の研究者たちの間で論争の焦点となりました。しかし僕が理解するところでは,その結論というのはすでに出てしまっています。それは,確かにこの定義というものは認識論的にしか読解できないように書かれているけれども,実際はその字義以上のものを含んでいる,すなわちこの定義は実在論的な定義であるということです。そして僕自身の結論に関しても先にいってしまえば,僕もまたその解釈が妥当であると考えています。
 実をいうと,この問題に関しては,実際には論争の焦点になるのにも相応しくないような問題であると考えている学者もいます。たとえばドゥルーズは,僕の理解ではそういう考え方に近いです。彼は『スピノザと表現の問題』においてこのことにも少しだけ触れていますが,そこではスピノザの哲学における知性というものは実在するものだけを知覚する,つまり認識するような知性なのであるから,たとえこの定義が認識論的に書かれているにしても,これを実在的に理解しても構わないと,そもそも問題自体を一蹴するような感じで結論付けています。
                         
 しかし,僕はこのような理由に依拠して,この定義は実在的定義であると結論することには,やや懐疑的です。というのは,スピノザが知性というのは,たとえば第二部定理四九系でスピノザ自身が明らかにしているように,ある思惟の個物が形成するような個々の観念の総体のことです。そして第二部定理二四とか第二部定理二五とかいった表象に関連するような諸々の定理が示していることは,現実的に存在する人間の知性の一部は,混乱した観念によって形成されているということです。だから,単に知性は実在するものだけを認識するといってこれを片付けてしまうことは,『エチカ』の理解にとって危険な側面があると思うのです。

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