スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

社会主義の評価&認識論と実在論

2011-04-07 19:07:10 | 歌・小説
 夏目漱石の社会主義の理解には,少なくとも僕の目から見る限りでは,十全とはいえない一面があるということを前提とした上で,漱石自身が,社会主義という思想をどのように評価していたのかということを考えてみます。
 社会主義を政治思想として最初にまとめあげたのは,マルクスであったといっていいでしょう。漱石はマルクスも読んでいました。そしてその思想について,現代,もちろんこれは漱石が生きていた時代という意味での現代ですが,その社会情勢からして,このような思想が発生してくるということはよく理解できる。ただし自分はこの思想には与しないという主旨のことをいっています。漱石がマルクスの思想を単に政治思想として理解したのか,あるいはもっと別の,たとえば哲学に類するような思想として理解したのかは僕には分かりません。ただ,基本的に漱石は個人主義者でしたから,それをどのような意味合いに理解するとしても,社会主義とは相容れない一面があるだろうということは,何となくであれ理解はできます。
                         
 このように,漱石のマルクスに対する姿勢というのも,ドストエフスキー評と同様に,二律背反という側面をもっています。漱石がドストエフスキー自身を社会主義者であると理解したかどうかは定かではないにしても,小林という人間を『明暗』の中で社会主義者ということばを使って表現し,かつその小林の口からドストエフスキーについて言及させているという点から鑑みて,少なくともドストエフスキーと社会主義という思想,もちろんこれは漱石が理解した社会主義という思想ということになりますが,その間に何らかの関連性を意味のあるものとして有していたということは,間違いないように僕には思えます。つまりスピノザの哲学風にいうなら,漱石の精神のうちに現実的に実在していたドストエフスキーの観念と,社会主義の観念は,何らかの秩序によって連結していたと僕は理解しているのです。そしてこれが,漱石のドストエフスキー評というものが,二律背反的になっているひとつの要因ではないかと思うのです。

 スピノザの哲学の研究者の間で,第一部定義四がどのような点で論争の焦点になったのかといえば,それはこの定義を,認識論的な意味で理解するべきなのか,それとも実在論的な意味で理解するべきなのかということでした。少なくともこの定義のスピノザの表現の仕方は,認識論的に書かれているとしかいいようがないと僕は思いますから,これは別のことばでいえば,この定義はそこに書かれた字義通りのものに理解するべきなのか,それとも字義以上のものを含んでいると理解するべきなのかという論争であるといういい方ができるのではないかと思います。
 もしもこの定義が認識論的なものであるとしたら,属性というものはあくまでも知性によって知覚されるものであるということになります。ただし,ここではおそらく注意が必要でしょう。スピノザは第二部定義三説明において,概念conceptusと,知覚perceptioをかなり厳密に分類しています。第一部定義四が知覚すると訳されているのはpercipereというラテン語の動詞をスピノザが使っているからですが,これを概念と対称的な意味での知覚として理解することはできません。これは,ここでは詳述は避けますが,この定義が認識論的であるのかそれとも実在論的な意味であるのかという論争以前の問題としてそうであるといえると思います。よってここでの知覚は,概念と反対の意味での知覚ではなく,単に認識する,概念も含めて認識するというほどの意味として僕は理解します。つまりこの定義を認識論的な意味として理解する場合には,僕はこれを,属性は知性によって認識されるような何ものかであるというように理解するということになります。
 一方,もしもこの定義が字義以上のもの,すなわち実在論的な意味を含むのであれば,属性というものは実体の本性を構成するものであるということになります。したがってこの場合には,知性がそれをどのようなものとして認識するのかということとは無関係に,属性というものはあって,そしてそれは実体の本性を構成しているということになります。
 非常に大まかではありますが,これが認識論と実在論との間にある差異ということになるでしょう。しかし僕は,この定義にはこれとは別にもうひとつ,理解する上で問題となるであろう差異があると思っているのです。
コメント
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