先月19日から予定されていた岸和田記念は開催を自粛。今月の16日から予定されていた川崎記念は,計画停電の心配があったので早々に中止が決定。こうした経緯から川崎記念出走予定の選手が岸和田に集結し,被災地支援競輪in岸和田という名称のGⅢが開催されることとなり,今日の決勝を迎えました。並びは武田-神山の茨城栃木,海老根-五十嵐の南関東,深谷-山口の中部,村上には伏見で坂本が単騎。
迷いなく五十嵐がSを取って海老根の前受け。3番手に武田,5番手に村上,7番手に深谷となり,坂本はこのラインを追走。残り2周半で深谷が徐に踏み上げていき,打鐘前のバックで先頭に。村上はこのラインを追走する構えも,前の海老根が引かず,4番手を取り合うような形で外に浮いてしまい万事休す。後方となった武田がバックから捲っていくと,好回転で深谷を捕え,直線も詰め寄らせずに優勝。神山を捌いた山口が2着。外を強襲した伏見が僅差の3着。
優勝した茨城の武田豊樹選手は先週の共同通信社杯から連続優勝。これを記念競輪とみなすかどうか難しいところですが,1月には和歌山記念を制しています。後方ですからあまりいい位置取りだったとはいえないと思うのですが,好調なのでしょう,鮮やかな捲りでした。今年はこれまでで最高の活躍を期待できるのではないかと思います。
第一部定理一から実体の実在を証明することが可能であったにも関わらず,スピノザはそれをしませんでした。昨日もいった通り,僕の想像では,その理由はスピノザがそれを必要とはしていなかったからです。実在的と名目的の問題の発生について示したように,スピノザにとって本当に必要であったのは,神の実在の証明なのであって,何らかの実体の実在の証明ではなかったと思われるからです。逆にいえば単に実体といわれるものについては,別にそれがただ名目的なものにすぎなくなってしまっても,一向に構わなかったのだろうと思います。したがって,第一部定理一は確かに実体が実在的であるという意味を含有し得るような定理であると僕は考えますが,だから第一部定義四は実在的な定義である,いい換えるなら第一部定義四で示されている実体というのは,そのような実在的な意味での実体であって,名目的な意味を保有するにすぎないような実体ではないと主張するのは,根拠としてはいささか薄弱すぎるように思います。
ということで,今度は神という実体の実在,そしてそれがどのように論証されるのかという点に問題が移ります。神の実在は,第一部定理一一で証明されることになります。これは第一部定理一一に関しては,少なくともこれを名目的な定理であると理解することはできないということを意味します。そしてその後,第一部定理一二と第一部定理一三,およびその系までは名目的なものと理解できないことはないと思いますが,第一部定理一四以降に関しては,明らかに神の実在というものが論証された上で記述されていると理解するべきでしょうから,それ以降の『エチカ』はすべて実在的な意味だけを有していると考えるべきだろうと思います。
第一部定理一一で必然的に存在するということが証明されている神,この神は,第一部定義六で定義されている神です。そこでもしも,これはそのように定義されているものが必然的に存在するということが証明されているのだと考えるなら,第一部定義六の立場は,少なくともその時点では名目的である公算が高くなります。ドゥルーズの考え方はこれに近く,第一部定義六で名目的に神といわれているものに,第一部定理一一で実在的な意味が付与されると結論しています。
迷いなく五十嵐がSを取って海老根の前受け。3番手に武田,5番手に村上,7番手に深谷となり,坂本はこのラインを追走。残り2周半で深谷が徐に踏み上げていき,打鐘前のバックで先頭に。村上はこのラインを追走する構えも,前の海老根が引かず,4番手を取り合うような形で外に浮いてしまい万事休す。後方となった武田がバックから捲っていくと,好回転で深谷を捕え,直線も詰め寄らせずに優勝。神山を捌いた山口が2着。外を強襲した伏見が僅差の3着。
優勝した茨城の武田豊樹選手は先週の共同通信社杯から連続優勝。これを記念競輪とみなすかどうか難しいところですが,1月には和歌山記念を制しています。後方ですからあまりいい位置取りだったとはいえないと思うのですが,好調なのでしょう,鮮やかな捲りでした。今年はこれまでで最高の活躍を期待できるのではないかと思います。
第一部定理一から実体の実在を証明することが可能であったにも関わらず,スピノザはそれをしませんでした。昨日もいった通り,僕の想像では,その理由はスピノザがそれを必要とはしていなかったからです。実在的と名目的の問題の発生について示したように,スピノザにとって本当に必要であったのは,神の実在の証明なのであって,何らかの実体の実在の証明ではなかったと思われるからです。逆にいえば単に実体といわれるものについては,別にそれがただ名目的なものにすぎなくなってしまっても,一向に構わなかったのだろうと思います。したがって,第一部定理一は確かに実体が実在的であるという意味を含有し得るような定理であると僕は考えますが,だから第一部定義四は実在的な定義である,いい換えるなら第一部定義四で示されている実体というのは,そのような実在的な意味での実体であって,名目的な意味を保有するにすぎないような実体ではないと主張するのは,根拠としてはいささか薄弱すぎるように思います。
ということで,今度は神という実体の実在,そしてそれがどのように論証されるのかという点に問題が移ります。神の実在は,第一部定理一一で証明されることになります。これは第一部定理一一に関しては,少なくともこれを名目的な定理であると理解することはできないということを意味します。そしてその後,第一部定理一二と第一部定理一三,およびその系までは名目的なものと理解できないことはないと思いますが,第一部定理一四以降に関しては,明らかに神の実在というものが論証された上で記述されていると理解するべきでしょうから,それ以降の『エチカ』はすべて実在的な意味だけを有していると考えるべきだろうと思います。
第一部定理一一で必然的に存在するということが証明されている神,この神は,第一部定義六で定義されている神です。そこでもしも,これはそのように定義されているものが必然的に存在するということが証明されているのだと考えるなら,第一部定義六の立場は,少なくともその時点では名目的である公算が高くなります。ドゥルーズの考え方はこれに近く,第一部定義六で名目的に神といわれているものに,第一部定理一一で実在的な意味が付与されると結論しています。
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