ドストエフスキーの小説が,かなりの長編であるにも関わらず,その物語の内部に流れている時間は意外に短いものであること,すなわち,その小説が濃密な理由のひとつとして,会話の分量が多いという点があげられると思います。夏目漱石のドストエフスキーの小説からの影響のひとつとして,登場人物の数の多さというのを示したことがありましたが,登場人物の数が多くなれば,それらの人物が語り合う場面というのも必然的に増えてくる筈ですから,会話の分量が多くなってくるということは,自然なことであるとはいえるでしょう。
しかし,それだけではありません。ドストエフスキーの小説の登場人物のうちには,冗長というか,お喋りをすることが好きであるとしか考えられないような人物が登場することがあって,そうした人物は話し出すとそれが止まらなくなる,つまり単に一つひとつの会話の分量が多いというだけにとどまらず,ひとつの会話時代が非常に長いという側面があり,そのことが余計にドストエフスキーの小説における会話の分量の多さというものを印象付けているような感もあります。
たとえば『カラマーゾフの兄弟』における兄弟の父であるフョードルなどはその典型だと思います。フョードルが喋っている内容というものが,小説の主題にとって重要であるかというなら,僕にはその大部分はむしろ不要であるとしか感じられません。僕には,このフョードルという登場人物が,作者であるドストエフスキーの意図を超越して喋り続けていると感じられるほどです。話していることが生きがいである,というよりも生きている証であるといったような感じなのです。
しかし一方で,これによって,フョードルという人物が,生き生きと描写されているというのも事実だと思います。ドストエフスキーは,小説を書くときに,かなり綿密に構成を立てていたようなのですが,さらにその意図を超越して,登場人物が勝手に行動をしているように感じられる場面は少なくありません。そしてそれは,ドストエフスキーの小説の,大きな魅力のひとつとなっているように僕には思えます。
HbA1cの悪化という検査結果が出た通院日の翌週の火曜,この日は妹のみなと赤十字病院の歯科の予約が入っていました。母はまだ連れて行かれないということでしたので,この日も僕が同行することになりました。
母が自動車で連れて行っていた頃は関係ありませんが,僕が連れて行くようになってからは,病院の前まで行くバスの関係上,なるべく毎時ちょうどという時刻の診察になるようにしてもらっています。この日は午後3時。作業所は最寄りのバス停から少し離れていますし,妹はあくまでもマイペースであるということも考慮して,この場合は2時20分頃に作業所に迎えに行くことになります。もちろんこれは運動療法の改善のひとつの策として徒歩。大体25分くらいかかるということが分かっていますから,一応の余裕もみまして家を出るのは1時50分くらい。このように事前にはっきりと予定を立てることができるのが,徒歩を選択する効果のひとつであるわけです。
前回で歯科衛生士による歯のクリーニングは終了していましたので,この日からは歯茎の方の治療に。ただし,僕が見ている範囲内では,この日は歯茎の治療をしたというよりも,1本1本の歯の周囲の歯茎の状態がどのようになっているかを詳しく検査しただけのようでした。もっとも,僕はこうした治療に用いられる特別な用語についてはその意味がいっかな分かりませんし,歯科衛生士からはその日の診療の内容に関して,あまり詳しい説明が与えられるというわけではありませんから,あくまでもこれは僕が診察室での状況を見ていた上での判断であって,本当は間違っているかもしれません。
一方,問題となっている左上の歯周病に関してですが,こちらはこの日も進展はありませんでした。要するに引き続いて経過を観察していくということです。妹は痛いといいますし,実際に治療の過程において,痛がっているとしか思えないような素振りも見せます。ですから程度は分かりませんが痛みを感じていることは間違いないでしょう。ただ,医師の話ですと,これは歯周病の進行が原因となっているのではなく,知覚過敏が生じている可能性もあるのではないかということでした。それで,歯周病の治療に関しては何も行いませんでしたが,痛みを感じていると考えられる部分については,コーティングを施してこの日の治療は終了しました。
しかし,それだけではありません。ドストエフスキーの小説の登場人物のうちには,冗長というか,お喋りをすることが好きであるとしか考えられないような人物が登場することがあって,そうした人物は話し出すとそれが止まらなくなる,つまり単に一つひとつの会話の分量が多いというだけにとどまらず,ひとつの会話時代が非常に長いという側面があり,そのことが余計にドストエフスキーの小説における会話の分量の多さというものを印象付けているような感もあります。
たとえば『カラマーゾフの兄弟』における兄弟の父であるフョードルなどはその典型だと思います。フョードルが喋っている内容というものが,小説の主題にとって重要であるかというなら,僕にはその大部分はむしろ不要であるとしか感じられません。僕には,このフョードルという登場人物が,作者であるドストエフスキーの意図を超越して喋り続けていると感じられるほどです。話していることが生きがいである,というよりも生きている証であるといったような感じなのです。
しかし一方で,これによって,フョードルという人物が,生き生きと描写されているというのも事実だと思います。ドストエフスキーは,小説を書くときに,かなり綿密に構成を立てていたようなのですが,さらにその意図を超越して,登場人物が勝手に行動をしているように感じられる場面は少なくありません。そしてそれは,ドストエフスキーの小説の,大きな魅力のひとつとなっているように僕には思えます。
HbA1cの悪化という検査結果が出た通院日の翌週の火曜,この日は妹のみなと赤十字病院の歯科の予約が入っていました。母はまだ連れて行かれないということでしたので,この日も僕が同行することになりました。
母が自動車で連れて行っていた頃は関係ありませんが,僕が連れて行くようになってからは,病院の前まで行くバスの関係上,なるべく毎時ちょうどという時刻の診察になるようにしてもらっています。この日は午後3時。作業所は最寄りのバス停から少し離れていますし,妹はあくまでもマイペースであるということも考慮して,この場合は2時20分頃に作業所に迎えに行くことになります。もちろんこれは運動療法の改善のひとつの策として徒歩。大体25分くらいかかるということが分かっていますから,一応の余裕もみまして家を出るのは1時50分くらい。このように事前にはっきりと予定を立てることができるのが,徒歩を選択する効果のひとつであるわけです。
前回で歯科衛生士による歯のクリーニングは終了していましたので,この日からは歯茎の方の治療に。ただし,僕が見ている範囲内では,この日は歯茎の治療をしたというよりも,1本1本の歯の周囲の歯茎の状態がどのようになっているかを詳しく検査しただけのようでした。もっとも,僕はこうした治療に用いられる特別な用語についてはその意味がいっかな分かりませんし,歯科衛生士からはその日の診療の内容に関して,あまり詳しい説明が与えられるというわけではありませんから,あくまでもこれは僕が診察室での状況を見ていた上での判断であって,本当は間違っているかもしれません。
一方,問題となっている左上の歯周病に関してですが,こちらはこの日も進展はありませんでした。要するに引き続いて経過を観察していくということです。妹は痛いといいますし,実際に治療の過程において,痛がっているとしか思えないような素振りも見せます。ですから程度は分かりませんが痛みを感じていることは間違いないでしょう。ただ,医師の話ですと,これは歯周病の進行が原因となっているのではなく,知覚過敏が生じている可能性もあるのではないかということでした。それで,歯周病の治療に関しては何も行いませんでしたが,痛みを感じていると考えられる部分については,コーティングを施してこの日の治療は終了しました。