スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&神の観念

2011-04-27 19:44:38 | 将棋
 昨年とは立場が入替っての再戦となった第22期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は甲斐智美女流王位が5勝,清水市代女流六段が7勝。
 振駒で清水六段の先手。▲7六歩△3四歩に得意の▲6八玉。後手も構わずに△5四歩。角交換はせず▲7八玉と寄ったので後手の中飛車に。2筋を突いていないのを生かして先手は飛車を5筋に回って中央の位を奪還。さらに互いに飛車を7筋に回るという意表の展開から先手が端攻めを敢行。これがうまく決まって龍を作ることに成功しました。
                         
 先手が二手スキを掛けたところ。ここで△9八飛▲7八歩を決めてから△5七歩と叩きましたが,これが逆転を呼び込む一手となったと思います。第2図に。
                         
 ここは観戦中。▲7九玉と金を取られない方に逃げたのには驚きました。△9九飛成▲8九香と使わせたので△8三歩と打つのは,後の▲5四香がないので有力だったと思いますが単に△5五角。ここは後手がよいと思って観戦していましたが,詰めろが続かなくなり,先手の反撃を受ける展開に。ただ先手もそれまでの過程で受けに駒を投資したので,簡単には攻めきれないという,どちらが勝つのか分からない将棋に。最後は先手が下駄を預ける形で後手玉を受けの難しい形に追い込みましたが,後手が鮮やかな即詰みに討取り,熱戦を制しました。
 甲斐女流王位の先勝。第二局は来月18日です。

 僕はそれがどんな神であれ,それを信仰の対象とはしません。しかし,神,すなわち絶対に無限な実体というものが実在するということは知っています。これが僕の立場であって,重要なのは,その絶対に無限な実体が神といわれるという唯名論的観点の方にあるのではなく,絶対に無限な実体は確かに実在するということの方だと考えるのです。やはり僕もスピノザと同様に,ことばというものは表象にすぎないと考えていますから,絶対に無限な実体が何ということばで示されるのかということは,さしたる問題ではないと考えるのです。
 ことばと対峙させていうならば,重要なのは観念の方です。あるいはことばは表象,すなわち混乱した観念ですから,正しくいうならば十全な観念の方であるといった方がいいかもしれません。絶対に無限な実体というものがどういうことばで示されるかということとは関係なく,もしもそれが十全な観念としてある知性のうちに形成されるならば,それが実在するということもまた正しく理解される筈です。そしてその理解は,ただその絶対に無限な実体の十全な観念のみを十全な原因として,いい換えればそれ以外のどんな観念にも依拠することなく,必然的に出てくるのです。僕が第一部定義六をそれ自体で実在的定義であると理解するのはまさにこの部分においてなのであって,それが神ということばで示されているからというわけではありません。別に神が不在であると考えるのだとしても,絶対に無限な実体というものは,それが十全に認識される限り,その不在は疑い得ないからです。そしてだからこそ僕は,神がどういうものでなければならないのかということは,単に唯名論的な問題にすぎないのであり,それは解決されるべき重要な課題ではないと考えているのです。
 第一部定義四に戻れば,このような観点から,それは実在的定義であると考えることも可能であると僕は思います。そして,少なくとも後の『エチカ』の論証の過程において,この属性が神,すなわち絶対に無限な実体の属性であるという観点から訴えられるときには,この定義を実在的定義として理解しなければならないと考えます。そして実際に『エチカ』の中には,そういう部分が含まれているといえるのではないでしょうか。
コメント
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