スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

マイナビ女子オープン&存在論的証明

2011-04-22 19:01:06 | 将棋
 驚きの大逆転という結末での開幕となった第4期マイナビ女子オープン五番勝負の第二局。
 甲斐智美女王の先手で中飛車。ここも居飛車を選択した上田初美女流二段は穴熊に。先手から仕掛けて第1図に。
                        
 5五の歩を伸ばしたところで,この手は好手だったようです。ここから△6七と▲同銀△5六歩▲同銀という不思議な手順。しかし,この後で先手が一気の攻めを躊躇ったため,後手は飛車を成ることに成功しました。第2図に。
                        
 ここで▲6六歩と打ちましたが,たぶん5五に打った方が,実戦の進展からみて得だったと思います。△3六歩▲6五歩△3七歩成▲同馬のとき△5五歩(第3図)と打たれ,馬と飛車の両方を遮断されました。
                        
 はっきり後手がよいというほどでもないようには思えますが,どうもこの後はあまり先手に楽しみがないような展開だったと思います。途中からは大差になったようにすら感じられ,後手の勝ちとなりました。
 上田二段が連勝で初タイトルに王手。第三局は来月10日です。

 繰り返しとなりますが,ドゥルーズの考え方というのは,第一部定義六はその時点では名目的定義であって,それが第一部定理一一に至って実在的意味が付与されるというものです。この考え方というのをさらに詳しく分析するならば,第一部定義六そのもののうちにはそこで定義されている神の実在を確証するようなものは何もなく,それは第一部定理一一においてようやく明らかにされるということだと思われます。実際にスピノザが第一部定理一一において神の実在をわざわざ証明している以上,この理解は妥当なもののように思えます。確かに,もしも第一部定理六自体の中に,神の存在がそれ自体で確証されているならば,それをわざわざ証明する必要というものがないように思えるからです。
 しかし本当にそうであるのかどうか,つまり第一部定義六はその時点では名目的定義であって,実在的定義として解釈する余地がないのかと問われるならば,僕は必ずしもそうであるとはいいきれないようにも思えるのです。これは,スピノザが第一部定理一一で,神の実在というものを証明する,その証明方法に関連します。
 スピノザは自分の哲学を神から始めることを意図していましたから,神が実在するのかどうか,というよりも,神が実在するということを証明するということは,根本的な意味で最も重大な問題であったといっていいだろうと思います。実際に第一部定理一一には,その重大性が明らかとなっていると僕には思えます。スピノザがこの定理を多面的な角度から,いくつかの方法を用いて証明しようと試みていることが,その証拠ではないかと僕には思えるのです。
 それらの証明のうち,第三の証明,いわゆる存在論的証明というのが,最もよく,また最も簡潔に神の実在を証明し得ていると僕は考えています。しかるにこの証明というのは,第一部定義六に依拠するだけで可能なものです。すなわち神が絶対に無限な実体である以上,神が存在するか,それとも何も存在しないかのどちらかでなければならないが,何も存在しないというのは不条理であるから,神は存在するというのがこの証明だからです。そしてこの証明方法のうちには,絶対に無限な実体が必然的に存在しなければならないということが含まれていて,よって第一部定義六で定義されている神は,この定義のうちに,あるいはそう定義されていることによって,すでに実在が確証されていると考えることが可能ではないでしょうか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東日本大震災復興支援東京ス... | トップ | 皐月賞&唯名論的観点 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

将棋」カテゴリの最新記事