自転車競技の全日本プロ選手権があった関係でしばらくお休みだった記念競輪も先週の土曜から再開。その取手記念は今日が決勝(動画)でした。
並びは古屋に伏見-成田の福島,岡村に大内,金子-東口の中部近畿,小川-紫原の福岡。
前受けが金子で3番手に古屋。6番手に小川で8番手が岡村という周回。残り2周のホームに入るところで小川から上昇。金子を叩くと続いた岡村がさらに叩き,バックではこれを古屋が抑えて打鐘から先行。一列棒状の中,小川がインを上がり岡村の後ろ,5番手に。岡村がバックから捲っていくも車間を開けていた伏見が満を持して発進。そのままマークの成田を引き連れて優勝,福島のワンツー。3着にはコーナーでインを突いた紫原。
優勝した福島の伏見俊昭選手はずっとコンスタントに走っていますが昨年5月の風光る以降は1年強グレードレースの優勝はなく,記念競輪はその前,3月のいわき平記念以来となる通算23勝目。優勝できていなかったのはたまたまで,力が衰えたとかそういうことではありません。ここは有力選手の欠場や脱落があり,決勝のメンバー構成からは大本命。無風で番手を回って当然の優勝ではありますが,そのわりには成田に意外と詰め寄られたという印象です。
あくまでも部分的にではありますが,この排尿の秩序付けに関連していると思われるある論考があります。それは田島正樹さんの「スピノザ的スピノザ」という論文で,これは現代思想の1987年9月号の特集スピノザの中に収録されています。

田島さんは別に排尿ないしはこれを我慢する運動について述べているわけではなくて,一般的な人間の身体の運動能力,といってもこれはピアノの演奏なども含めた意味での運動能力の人間の身体による獲得について説明しているのですが,これを幼児の言語習得過程と対比させ,さらにこの人間の身体の運動能力の習得と同様のことが,人間の精神による知覚能力の習得にもいえるということを示しています。
このことを現在の僕自身の考察に関連させていうならば,人間がある外部の物体の刺激によって排尿という運動をなすことを習得し,その結果として,そうした刺激を受けないうちは排尿を我慢する運動をなすことを習得するということと,人間の精神がトイレを代表とするようなある外部の物体を知覚することによって排尿という運動をなしてもよいと判断ないしは意志したり,逆にそうした外部の物体を知覚しないうちは排尿を我慢するべきであると判断あるいは意志するということは,それぞれが同じ様式によって説明することができるということになります。そしてこれはまさにここで秩序の獲得として説明してきたことに合致しているといえるでしょう。
正直にいますと,「スピノザ的スピノザ」というこの論文に関しては,僕は部分的にはそのまま肯定することができないところもあります。ただ,この運動能力ならびに知覚能力の獲得について説明している「身体は観念を表現する」という章に関しては確かに田島さんのいわれている通りであると思いますし,この部分は僕がここで展開している考察の理解の助けにもなるだろうと思います。
並びは古屋に伏見-成田の福島,岡村に大内,金子-東口の中部近畿,小川-紫原の福岡。
前受けが金子で3番手に古屋。6番手に小川で8番手が岡村という周回。残り2周のホームに入るところで小川から上昇。金子を叩くと続いた岡村がさらに叩き,バックではこれを古屋が抑えて打鐘から先行。一列棒状の中,小川がインを上がり岡村の後ろ,5番手に。岡村がバックから捲っていくも車間を開けていた伏見が満を持して発進。そのままマークの成田を引き連れて優勝,福島のワンツー。3着にはコーナーでインを突いた紫原。
優勝した福島の伏見俊昭選手はずっとコンスタントに走っていますが昨年5月の風光る以降は1年強グレードレースの優勝はなく,記念競輪はその前,3月のいわき平記念以来となる通算23勝目。優勝できていなかったのはたまたまで,力が衰えたとかそういうことではありません。ここは有力選手の欠場や脱落があり,決勝のメンバー構成からは大本命。無風で番手を回って当然の優勝ではありますが,そのわりには成田に意外と詰め寄られたという印象です。
あくまでも部分的にではありますが,この排尿の秩序付けに関連していると思われるある論考があります。それは田島正樹さんの「スピノザ的スピノザ」という論文で,これは現代思想の1987年9月号の特集スピノザの中に収録されています。

田島さんは別に排尿ないしはこれを我慢する運動について述べているわけではなくて,一般的な人間の身体の運動能力,といってもこれはピアノの演奏なども含めた意味での運動能力の人間の身体による獲得について説明しているのですが,これを幼児の言語習得過程と対比させ,さらにこの人間の身体の運動能力の習得と同様のことが,人間の精神による知覚能力の習得にもいえるということを示しています。
このことを現在の僕自身の考察に関連させていうならば,人間がある外部の物体の刺激によって排尿という運動をなすことを習得し,その結果として,そうした刺激を受けないうちは排尿を我慢する運動をなすことを習得するということと,人間の精神がトイレを代表とするようなある外部の物体を知覚することによって排尿という運動をなしてもよいと判断ないしは意志したり,逆にそうした外部の物体を知覚しないうちは排尿を我慢するべきであると判断あるいは意志するということは,それぞれが同じ様式によって説明することができるということになります。そしてこれはまさにここで秩序の獲得として説明してきたことに合致しているといえるでしょう。
正直にいますと,「スピノザ的スピノザ」というこの論文に関しては,僕は部分的にはそのまま肯定することができないところもあります。ただ,この運動能力ならびに知覚能力の獲得について説明している「身体は観念を表現する」という章に関しては確かに田島さんのいわれている通りであると思いますし,この部分は僕がここで展開している考察の理解の助けにもなるだろうと思います。