スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&表象像と意志作用

2010-05-28 20:16:44 | 将棋
 第51期王位戦挑戦者決定リーグ最終一斉対局。今日は紅組から勝者は最低でもプレーオフ進出,敗者はリーグから陥落と明暗を分ける渡辺明竜王広瀬章人五段の将棋を。公式戦初対局です。
 リーグ戦はあらかじめ先後が決まっていてここは広瀬五段の先手。渡辺竜王の2手目△8四歩から先手の5筋位取り中飛車。相穴熊の将棋になりました。
                    
 ここから先手が▲5四歩と仕掛け,角交換から▲4四銀と飛び出しました。後手の8筋からの攻めは自玉から遠いですので,その間に盤面の右側でポイントを上げようという算段。以下,△3四歩の受けに金を取って△同金に▲4四金のただ捨て。△同金と取らせてから▲7一角と打ち,金を取り返しながら馬を作ったのが第2図。
                    
 先手の攻めがこれできまっているわけではないでしょうが,ペースは先手が握っている感じです。後手の飛車を7二に寄らせた関係で,後手からの攻めをまた少し遅くして,あまり忙しくはなっていないのも大きい気がします。
 実戦もこの後,後手は大駒を自陣に引きつけたり投入したりするような粘り方をせざるを得ないような展開に。そうなると先手は攻撃だけに焦点を絞れるのが大きく,相穴熊の将棋では往々にしてあることですが,ほぼ一方的な内容で押し切っています。
 広瀬五段が勝って4勝1敗。同じく3勝だった佐藤康光九段は破れたため,紅組の優勝が決定。挑戦者決定戦に進出しました。白組についてはまた明日にでも。

 僕たちが排尿我慢する意志を有したとき,実際に僕たちの身体は排尿を我慢していたということは,だれしも否定することはできないであろうと思います。ところで,実はこのこと自体が,僕たちの精神のうちにある知性と意志,すなわち個々の観念と個々の意志作用とが同一のものであるということを,経験的に明らかにしていると僕は考えるのです。
 なぜならば,まず,僕たちがこのこと自体,すなわち自分の精神が排尿を我慢しようとしている場合には常に自分の身体が排尿を我慢する運動をなしていたということを肯定するとき,僕たちの精神のうちには必ず排尿を我慢している自分自身の身体についての表象像が現実的に存在します。これはそうした表象像が存在しなければ,このことを肯定すること自体が不可能ですからそれ自体で明らかでしょう。一般的にいえば,僕たちがある事柄を肯定しまた否定するためには,その肯定や否定の対象となるものが観念として存在していなければならないからです。念のためにもしもこのことを『エチカ』に訴えるなら,第二部公理三を利用することができると思います。
 この表象像は,表象の種類でいうならば,知覚であるというよりは想起であるといった方がいいでしょう。実際に僕たちがこのことを肯定するときにイメージするのは,かつて自分が排尿を我慢しようとしていたときの自分の精神であり,自分の身体であるといえると思うからです。しかしこの想起という表象像の中には,同時に必ず排尿を我慢することを肯定するような意志作用が含まれています。これも,この場合に僕たちがイメージしているものがそうした状況にある自分の精神であるということからそれ自体で明らかだといえるでしょう。
 つまり,排尿を我慢している自分自身の身体の想起の表象像,すなわち観念と,これを肯定する意志作用は,常に同時に僕たちの精神のうちにあるということになり,しかも一方がなければもう一方が,もう一方がなければ一方が,表象することができないような関係にあるといえるでしょう。つまりこの観念と意志作用は同一のものであって,単にそれをどのような観点からみているかにすぎないということが,このことのうちに含まれているといえると思うのです。

コメント
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