昨日の第51期王位戦挑戦者決定リーグ最終一斉対局。白組の大一番は勝った方が最低でもプレーオフに進出できる羽生善治名人と丸山忠久九段の一戦でした。対戦成績は羽生名人が33勝,丸山九段が17勝。
ここは羽生名人の先手で丸山九段の横歩取り△8四飛。おそらくは後手の構想に破綻があったためと思われますが,先手の大きな歩得に。結果的には後手の中盤の指し方が不可解になってしまいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/88/6723dd5cf5c50279cbdbb256234f5261.png)
先手としては手数を伸ばして後手の攻め疲れを待つような指し方も考えられそうですが,ここで▲6三角成と一気に決めにいきました。△同歩に▲5五銀と厚みを加え,△7四飛▲同歩△6五桂にも受けずに▲5四銀の進出。△5七桂左成と王手は掛けられますが▲6九玉と逃げておき,△4七成桂となったところで▲5三桂(第2図)の王手が決め手。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/06/5552c6cd4461b0b78b507ff78ae9e2b5.png)
以下,△3二玉に▲7二飛△4二銀▲4一桂成で決まっていました。中盤で優位に立ち,最後は読み切って勝った先手の快勝譜といえそうです。
羽生名人が勝って4勝1敗。白組は1敗で並走していた戸辺誠六段も勝ったのでプレーオフに。これは6月1日に指されるとのことです。
僕たちが自分自身の排尿を我慢した経験を想起することによって証明される,この表象像と意志作用との関係は,当然のことながら排尿を我慢する場合だけに特有に該当するのではなく,排尿という運動自体の場合にも妥当します。ただし,僕たちは一般的に排尿の分節でいえば放尿をなす場合には,排尿という運動を肯定するような意志作用については大抵の場合には意識することがありませんので,これを経験に訴える場合の説明の仕方は排尿を我慢する場合とは少し違ってきます。
この考察における約束事では,ある人間の身体が排尿という運動をなすとき,この人間の精神のうちには,この運動を否定するような思惟の様態は存在しないということになっています。そこで,僕たちが放尿をしている場合,要するにトイレで排尿をなす場合のほとんどはこれにあたりますから,これを想起してみます。これは実際にほとんどの人が毎日のようになしていることなので,想起すること自体は困難ではない筈です。すると,確かに僕たちがこの運動をなしているときには,これを否定するような思惟の様態は自分の精神のうちに実在しなかったということが理解できると思います。
これは実は当然のことなのです。なぜなら,もしもそうした思惟の様態が自分の精神のうちに実在するということは,具体的には僕たちの精神のうちに排尿を我慢する意志作用があったということを意味しますが,この意志作用があるときは,むしろ身体は排尿という運動を我慢しているということ,つまりこれらのふたつは同一個体であるということがすでに明らかになっているからです。したがって,こうした種類のいかなる思惟の様態も,放尿している自分自身の身体の表象像とは同時にあるということができないのです。つまりこの両者の関係は,一方があるなら他方が,他方があるなら一方が,あることも考えることもできないような,矛盾した関係にあるのです。
したがって僕たちは,こうした排尿に関してそれを想起する場合には,排尿という運動を否定するようないかなる思惟の様態の現在も否定しなければなりません。これが,排尿の観念の場合にも,経験的にこの観念とこれを肯定する意志作用とが同一のものであるということを説明する場合のベースとなります。
ここは羽生名人の先手で丸山九段の横歩取り△8四飛。おそらくは後手の構想に破綻があったためと思われますが,先手の大きな歩得に。結果的には後手の中盤の指し方が不可解になってしまいました。
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先手としては手数を伸ばして後手の攻め疲れを待つような指し方も考えられそうですが,ここで▲6三角成と一気に決めにいきました。△同歩に▲5五銀と厚みを加え,△7四飛▲同歩△6五桂にも受けずに▲5四銀の進出。△5七桂左成と王手は掛けられますが▲6九玉と逃げておき,△4七成桂となったところで▲5三桂(第2図)の王手が決め手。
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以下,△3二玉に▲7二飛△4二銀▲4一桂成で決まっていました。中盤で優位に立ち,最後は読み切って勝った先手の快勝譜といえそうです。
羽生名人が勝って4勝1敗。白組は1敗で並走していた戸辺誠六段も勝ったのでプレーオフに。これは6月1日に指されるとのことです。
僕たちが自分自身の排尿を我慢した経験を想起することによって証明される,この表象像と意志作用との関係は,当然のことながら排尿を我慢する場合だけに特有に該当するのではなく,排尿という運動自体の場合にも妥当します。ただし,僕たちは一般的に排尿の分節でいえば放尿をなす場合には,排尿という運動を肯定するような意志作用については大抵の場合には意識することがありませんので,これを経験に訴える場合の説明の仕方は排尿を我慢する場合とは少し違ってきます。
この考察における約束事では,ある人間の身体が排尿という運動をなすとき,この人間の精神のうちには,この運動を否定するような思惟の様態は存在しないということになっています。そこで,僕たちが放尿をしている場合,要するにトイレで排尿をなす場合のほとんどはこれにあたりますから,これを想起してみます。これは実際にほとんどの人が毎日のようになしていることなので,想起すること自体は困難ではない筈です。すると,確かに僕たちがこの運動をなしているときには,これを否定するような思惟の様態は自分の精神のうちに実在しなかったということが理解できると思います。
これは実は当然のことなのです。なぜなら,もしもそうした思惟の様態が自分の精神のうちに実在するということは,具体的には僕たちの精神のうちに排尿を我慢する意志作用があったということを意味しますが,この意志作用があるときは,むしろ身体は排尿という運動を我慢しているということ,つまりこれらのふたつは同一個体であるということがすでに明らかになっているからです。したがって,こうした種類のいかなる思惟の様態も,放尿している自分自身の身体の表象像とは同時にあるということができないのです。つまりこの両者の関係は,一方があるなら他方が,他方があるなら一方が,あることも考えることもできないような,矛盾した関係にあるのです。
したがって僕たちは,こうした排尿に関してそれを想起する場合には,排尿という運動を否定するようないかなる思惟の様態の現在も否定しなければなりません。これが,排尿の観念の場合にも,経験的にこの観念とこれを肯定する意志作用とが同一のものであるということを説明する場合のベースとなります。
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