スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&失禁

2010-03-19 19:22:06 | 将棋
 せっかくの二冠を死守するためにも久保利明棋王としては負けるわけにはいかない第35期棋王戦五番勝負第四局。
 佐藤康光九段の先手で久保棋王のごきげん中飛車に対して③AⅡの進行。持久戦となり後手が動きを見せたところで先手から仕掛けて2筋で桂馬の交換となり第1図。
               
 ここで後手は△3三桂と受けていますが,これでは先手だけが盤上の桂を駒台に乗せたような格好で,ここは先手が十分に思われます。
 しかしこの後,先手の攻めに指しすぎがあったようで大駒がすべて後手の手に。先手も必死に食らいつきにいきましたが,攻めが遅くなってしまいました。
               
 ここで△9五歩からの端攻め。後手も盤面右側の飛車角は働きが薄いのですがこれが厳しい反撃の上,後手玉を広くする含みもある一石二鳥の手。こちらから攻められると先手玉周辺の金銀もあまり役に立っていない感じで,どうもこの手を境に一気に後手に傾いたようです。以下,端から殺到した後手がそのまま押し切り勝っています。
 これでこのシリーズ後手の4連勝で2勝2敗のタイに。棋王位の行方が決定する第五局は年度末の30日です。

 考察を進める便宜上,排尿という運動をさらに分節した場合に,分節された各々に関してもそれぞれの名称が必要です。そこでここではそれを,放尿という排尿と,失禁という排尿とに分節します。これはあくまでも便宜的なものですので,以下の定義は,単にこの考察の中では放尿および失禁についてそのようにいうというだけのことであって,一般的にスピノザの哲学における定義に妥当するようなものではありません。いい換えればそれが放尿および失禁の本性を表すとは僕も考えているわけではないです。
 放尿の方はやや消極的な,すなわち失禁には妥当しないような排尿という性格を僕はもたせますので,先にこの考察においてはどのような場合の排尿という運動について,それを失禁というのかということを定義しておきます。
 僕は排尿という運動をある人間の身体がなすとき,この人間の精神の状況が,以下の3種類のいずれかに該当するとき,その排尿をとくに失禁ということにします。
 ①その人間の精神が覚醒していない場合。いい換えればその人間の精神が完全に無意識である場合。
 ②その人間の精神は覚醒しているが,自分の身体の排尿という運動に関して,一切の観念がない場合。いい換えれば,その人間の精神は意識状態にあるけれども,自分の身体の排尿という運動に関しては,無意識である場合。
 ③その人間の精神は覚醒していて,かつ自分の身体の排尿に関して何らかの観念もあるが,何らかの意味でその観念を否定する力が働いている場合。いい換えれば,自分の身体の排尿という運動を意識していて,同時にそれを我慢する意志がある場合。あくまでもここでは思惟の属性による分節ですので,身体が我慢しているという意味ではなく,精神の傾向として我慢しているということを重視します。
 各々の失禁の具体例に関しては,かつて紹介した以上のことはありませんし,それが必要というものでもありませんのでここでは改めての説明は割愛します。
コメント
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