第四部定理六六備考で,スピノザは自由の人homo liberと奴隷servusとを区別しました。注意しなければならないのは,自由の人と奴隷とがそれぞれ別に存在するというわけではなく,同じ人間が自由の人にもなるし,奴隷にもなるということです。だからこの部分から僕たちが実践的な意味で何かを学ぶとすれば,僕たちはなるべく自由の人でいるように心掛けるということであり,他面からいえば奴隷にならないように心掛けるということです。
それとは別に,スピノザがこのように区分をしていることから,フロムErich Seligmann Frommはスピノザの哲学を正しく解しているということが分かります。あるいは,フロム自身の見解opinioとスピノザの哲学の見解は一致しているということが分かります。フロムは能動的であるということと受動的であるということを区分し,前者は自由な人間であるのに対して後者は自由な人間ではないと述べています。これはスピノザがこの備考Scholiumで述べていることと一致します。なぜならスピノザは自由の人を,自己以外の何ものにも従わない人であるといっていますが,これは自分を十全な原因causa adaequataとする人という意味であり,これは第三部定義二によりその人間の能動actioにほかなりません。同様にこの備考では,感情affectusや意見opinioに導かれる人が奴隷といわれていますが,これはその人が部分的原因causa partialisであるということを意味しているのであり,それはその人の受動passioにほかならないからです。
そして重要なのは,フロムが活動という語で述べているように,あくせくと動く人のことが活動的といわれ,沈思黙考する人は活動的ではないといわれるのではないということです。自身の受動感情に流されて動き回る人は,いかに活動的に見えても受動的な人間であり,自由の人ではなく奴隷です。逆にじっとして動きがない人であっても,その人が自身の精神mensを十全な原因として何事かを考えているのであれば,その人は奴隷ではなくて自由の人なのです。
フロムの言及は必ずしも自由についてのものではなく,能動と受動に関してのみだとはいえます。それがスピノザの哲学では自由の概念notioに直結するのであって,それが直結するか否かを考慮の外に置けば,フロムとスピノザは完全に一致しているといえます。
第三種の認識cognitio tertii generisの具体的な例を示すための考察はこれですべてです。ただ関連事項としていっておきたいことがありますので,そちらの探求へ移ります。
考察の冒頭でいっておいたように,近藤は自身の考えを説明するために,哲学的な基礎付けというのをまったく必要としていません。近藤自身がそのように述べているわけではありませんが,僕にはそのように思えます。なぜなら,これもいっておいたように,近藤は自説を科学的な観点から論証しようと試みていて,そのためには哲学的なあるいは形而上学的な説明というのはむしろ邪魔になると思われるからです。これはたとえばフロイトSigmund Freudが精神分析学を開拓したときに,それを自然科学として説明するために,哲学的な論拠,フロイトが意識していたのはスピノザの哲学による根拠づけですが,それを必要としていなかったということからの連想です。この科学的根拠に関連する部分が,ここからの考察の中心になります。
近藤は幼少期の算数や数学の自身の学習の経験に関して,それは他人とは違うものがあるということを,その時点で把握していました。この学習方法に関してはすでに説明しましたので,それを繰り返すことはしません。ただそれは他人とは異なる不思議な方法であるという認識cognitioがあっただけで,それが具体的にどのように異なっているのかということや,他人とは異なった方法でなぜ自身が学習することができるのかということ,あるいはそうした方法での学習になぜ成果が出るのかということは分かっていませんでした。そして後に近藤はある本と出会い,そのことが腑に落ちたといっています。その本というのは『脳内革命』という本です。
近藤は読書をする習慣というのはありませんでしたが,脳に興味があり,かつこの本はベストセラーになっていたので読んでみたところ,これだと思ったと記しています。僕はこの本は読んだことがありませんので,内容は知りません。近藤がこれだと思ったのは,この本の中にある,右脳と左脳の働きの違いに関する記述だったようです。ごく簡単にいうと,左脳というのは論理的な思考を司るのに対して,右脳はそのストックに基づいて答えを出すのです。
それとは別に,スピノザがこのように区分をしていることから,フロムErich Seligmann Frommはスピノザの哲学を正しく解しているということが分かります。あるいは,フロム自身の見解opinioとスピノザの哲学の見解は一致しているということが分かります。フロムは能動的であるということと受動的であるということを区分し,前者は自由な人間であるのに対して後者は自由な人間ではないと述べています。これはスピノザがこの備考Scholiumで述べていることと一致します。なぜならスピノザは自由の人を,自己以外の何ものにも従わない人であるといっていますが,これは自分を十全な原因causa adaequataとする人という意味であり,これは第三部定義二によりその人間の能動actioにほかなりません。同様にこの備考では,感情affectusや意見opinioに導かれる人が奴隷といわれていますが,これはその人が部分的原因causa partialisであるということを意味しているのであり,それはその人の受動passioにほかならないからです。
そして重要なのは,フロムが活動という語で述べているように,あくせくと動く人のことが活動的といわれ,沈思黙考する人は活動的ではないといわれるのではないということです。自身の受動感情に流されて動き回る人は,いかに活動的に見えても受動的な人間であり,自由の人ではなく奴隷です。逆にじっとして動きがない人であっても,その人が自身の精神mensを十全な原因として何事かを考えているのであれば,その人は奴隷ではなくて自由の人なのです。
フロムの言及は必ずしも自由についてのものではなく,能動と受動に関してのみだとはいえます。それがスピノザの哲学では自由の概念notioに直結するのであって,それが直結するか否かを考慮の外に置けば,フロムとスピノザは完全に一致しているといえます。
第三種の認識cognitio tertii generisの具体的な例を示すための考察はこれですべてです。ただ関連事項としていっておきたいことがありますので,そちらの探求へ移ります。
考察の冒頭でいっておいたように,近藤は自身の考えを説明するために,哲学的な基礎付けというのをまったく必要としていません。近藤自身がそのように述べているわけではありませんが,僕にはそのように思えます。なぜなら,これもいっておいたように,近藤は自説を科学的な観点から論証しようと試みていて,そのためには哲学的なあるいは形而上学的な説明というのはむしろ邪魔になると思われるからです。これはたとえばフロイトSigmund Freudが精神分析学を開拓したときに,それを自然科学として説明するために,哲学的な論拠,フロイトが意識していたのはスピノザの哲学による根拠づけですが,それを必要としていなかったということからの連想です。この科学的根拠に関連する部分が,ここからの考察の中心になります。
近藤は幼少期の算数や数学の自身の学習の経験に関して,それは他人とは違うものがあるということを,その時点で把握していました。この学習方法に関してはすでに説明しましたので,それを繰り返すことはしません。ただそれは他人とは異なる不思議な方法であるという認識cognitioがあっただけで,それが具体的にどのように異なっているのかということや,他人とは異なった方法でなぜ自身が学習することができるのかということ,あるいはそうした方法での学習になぜ成果が出るのかということは分かっていませんでした。そして後に近藤はある本と出会い,そのことが腑に落ちたといっています。その本というのは『脳内革命』という本です。
近藤は読書をする習慣というのはありませんでしたが,脳に興味があり,かつこの本はベストセラーになっていたので読んでみたところ,これだと思ったと記しています。僕はこの本は読んだことがありませんので,内容は知りません。近藤がこれだと思ったのは,この本の中にある,右脳と左脳の働きの違いに関する記述だったようです。ごく簡単にいうと,左脳というのは論理的な思考を司るのに対して,右脳はそのストックに基づいて答えを出すのです。