岡田美術館で指された昨日の第48期女流名人戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流名人が21勝,伊藤沙恵女流三段が6勝。
岡田美術館の館長による振駒で伊藤三段の先手。初手から居飛車を明示すると,後手が居玉のまま急戦を目指し,先手が応じたのですぐに乱戦になりました。厳密にいうと後手の仕掛けはやや無理だったかもしれません。
第1図まで進むと☖6五同飛☗5五歩☖同飛☗5六歩までは一本道。
その局面は分岐で,実戦は☖7七角と激しく攻め込みました。☗同金☖同歩成☗同玉まで先手は避けようがありません。☖5六飛と取って攻めが繋がると後手は読んでいたようですが,☗5八歩と受けられて苦慮することになりました。
攻めきれないと駒損の後手が不利ですが,それは困難だったようです。☖7七角がやりすぎで,☖4五飛と緩めておくべきでした。
伊藤三段が先勝。第二局は23日に指される予定です。
僕は『脳内革命』を読んだことがないのですから,近藤の解釈が正しいのかどうかということは分かりません。確かなのはこれを読んだ近藤は,自身の経験を照らし合わせるときに,科学的なあるいは生理学的な説明として腑に落ちたということです。近藤がなぜ脳に興味があったのかということは著書の中に説明がないので不明ですが,もしかしたら自身の経験は,脳の働きと関係しているのではないかと漠然とであれ考えていたからだったかもしれません。そして同時に,この僕の推測が誤りであったとしても,おそらく近藤はそのようなベクトルで物事に興味を持つ人物であるということは間違いないと思います。だから近藤は自身のことを哲学的に説明しようとは思っていないし,そのような説明を必要としていないでしょう。他面からいえば,仮にスピノザの哲学を近藤が知ったとして,第二種の認識cognitio secundi generisと第三種の認識cognitio tertii generisという概念notioを理解したとしても,それで腑に落ちるということはなかったろうと僕は思います。
哲学というのはどのような学問に対しても,形而上学的な基礎付けとなり得ると僕は考えています。近藤の解釈が正しいとすれば,左脳は第二種の認識を担い,右脳が第三種の認識を担当するという仕方で,『脳内革命』を形而上学的に基礎づけることができると思います。そして僕自身の関心はスピノザの哲学に向かっているわけですから,近藤とは逆に,近藤の経験がスピノザの哲学に妥当しているという方向で腑に落ちることになるのです。これは志向性の違いであって,何を志向しているかに相違はあったとしても,結論となるベースの部分は一致することになります。なぜなら真理veritasは唯一であって,どのような方向からそこに向かっても,最終地点は同じになるからです。単純にいえば,科学者は科学者として真理に到達し,哲学者は哲学者として真理に到達するのであり,それが同じ事柄の真理であるなら,到達地点は同じになるのです。
近藤が腑に落ちたというのは,算数や数学の問題に特化していたわけではありません。自身の麻雀のプレイとも関連した記述にはなっています。ただしこのことは『脳内革命』の出版時期から,後付けの説明です。
岡田美術館の館長による振駒で伊藤三段の先手。初手から居飛車を明示すると,後手が居玉のまま急戦を目指し,先手が応じたのですぐに乱戦になりました。厳密にいうと後手の仕掛けはやや無理だったかもしれません。
第1図まで進むと☖6五同飛☗5五歩☖同飛☗5六歩までは一本道。
その局面は分岐で,実戦は☖7七角と激しく攻め込みました。☗同金☖同歩成☗同玉まで先手は避けようがありません。☖5六飛と取って攻めが繋がると後手は読んでいたようですが,☗5八歩と受けられて苦慮することになりました。
攻めきれないと駒損の後手が不利ですが,それは困難だったようです。☖7七角がやりすぎで,☖4五飛と緩めておくべきでした。
伊藤三段が先勝。第二局は23日に指される予定です。
僕は『脳内革命』を読んだことがないのですから,近藤の解釈が正しいのかどうかということは分かりません。確かなのはこれを読んだ近藤は,自身の経験を照らし合わせるときに,科学的なあるいは生理学的な説明として腑に落ちたということです。近藤がなぜ脳に興味があったのかということは著書の中に説明がないので不明ですが,もしかしたら自身の経験は,脳の働きと関係しているのではないかと漠然とであれ考えていたからだったかもしれません。そして同時に,この僕の推測が誤りであったとしても,おそらく近藤はそのようなベクトルで物事に興味を持つ人物であるということは間違いないと思います。だから近藤は自身のことを哲学的に説明しようとは思っていないし,そのような説明を必要としていないでしょう。他面からいえば,仮にスピノザの哲学を近藤が知ったとして,第二種の認識cognitio secundi generisと第三種の認識cognitio tertii generisという概念notioを理解したとしても,それで腑に落ちるということはなかったろうと僕は思います。
哲学というのはどのような学問に対しても,形而上学的な基礎付けとなり得ると僕は考えています。近藤の解釈が正しいとすれば,左脳は第二種の認識を担い,右脳が第三種の認識を担当するという仕方で,『脳内革命』を形而上学的に基礎づけることができると思います。そして僕自身の関心はスピノザの哲学に向かっているわけですから,近藤とは逆に,近藤の経験がスピノザの哲学に妥当しているという方向で腑に落ちることになるのです。これは志向性の違いであって,何を志向しているかに相違はあったとしても,結論となるベースの部分は一致することになります。なぜなら真理veritasは唯一であって,どのような方向からそこに向かっても,最終地点は同じになるからです。単純にいえば,科学者は科学者として真理に到達し,哲学者は哲学者として真理に到達するのであり,それが同じ事柄の真理であるなら,到達地点は同じになるのです。
近藤が腑に落ちたというのは,算数や数学の問題に特化していたわけではありません。自身の麻雀のプレイとも関連した記述にはなっています。ただしこのことは『脳内革命』の出版時期から,後付けの説明です。