スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部定理五五備考&秩序と連結の意識化

2022-01-28 19:32:52 | 哲学
 僕は受動的な自己満足という感情affectusが存在するということ,他面からいえば,自己満足acquiescentia in se ipsoという喜びlaetitiaは必ず能動actioであるというわけではなく,受動passioである場合もあると考えています。このことはスピノザ自身も『エチカ』の中で明言しています。それは第三部定理五五備考に示されています。この部分は,まず第三部定理五五があり,次にその証明Demonstratioがあって系Corollariumに続きます。この系の後に備考Scholiumがあって,備考が終わるとまた系があります。さらにその系の後にまた備考があるという複雑な構成になっています。僕がここでいう備考は最初の系の後の備考です。僕はふたつ目の系は第三部定理五五備考系といい,その系の後の備考は,第三部定理五五系備考ないしは第三部定理五五備考系備考ということにします。
                                   
 備考の冒頭では自己嫌悪humilitasについて語られます。それから自己満足へと続きます。
 「我々自身を観想することから生ずる喜び(Laetitia)は自己愛または自己満足(Philautia, vel Acquiescentia in se ipso)と称される」。
 ここからも分かるように,現実的に存在するある人間が自分自身のことを表象し,そのことによって喜びを感じるなら,それは自己満足です。しかるに人間が何らかのものを表象するimaginariというのは,その人間の受動を意味します。表象像imaginesというのは常に混乱した観念idea inadaequataなので,第三部定理三によってそれは受動だからです。この備考では表象する,とはいわれずに,観想するcontemplari,といわれていますが,観想するというのは,能動と受動の両方を含意しますので,現実的に存在する人間が自分自身のことを表象する場合も,僕たちが僕たち自身を観想する場合に含まれます。
 一方,この備考ではこうした喜びは自己満足であると単にいわれているのではなく,自己愛または自己満足と称されるといわれています。単に自己満足といわず,自己愛または自己満足とスピノザがいったことについては,明確な理由があったと僕は考えています。そのことについてはいずれその考えを説明することにします。

 ある人間が第三種の認識cognitio tertii generisである事柄を認識するcognoscereとき,その直観scientia intuitivaのための蓄積となっている観念ideaが何であるのかということが分からないということがあり得るのがなぜかということを簡単に説明しておきます。
 まず,直観は論理的思考を経ずにある人間の知性intellectusのうちに生じます。ですからなぜその直観が正しいのか,いい換えればそれが十全な観念idea adaequataであるのかということを確認するためには,論理的な思考が必要になります。つまりこの場合は論理的な思考が直観の補完にしかなっていません。なので直観それ自体は論理的な思考を必要とはしないのです。他面からいえば,直観である事柄が正しく認識できるのであれば,論理的思考は不要です。直観によって導かれた観念は十全な観念ですから,それが十全であるということについては,第二部定理四三によって,その観念だけでその人間の知性のうちで確証されるからです。
 このために,直観によって解答が導かれる場合は,どのような論理過程が敷かれているのかということは,その人間の知性のうちには生じません。だからその論理過程が分かるという場合もあれば,分からないという場合もあるでしょう。観念と別の観念はある秩序ordoと連結connexioを保って知性のうちに存在しますが,僕たちは僕たちの精神mensのうちにあるすべての観念について,その秩序と連結がどうなっているのかということを常に意識しているわけではないからです。なのでそれを自分自身のうちで論理づけようとする場合に,もしも秩序と連結を直観による結論そのものと連結させて考えるconcipereことができるなら,その論理づけはできます。これは絶対にできるのです。しかし直観による結論に対して連結されている観念がどの観念であるのかが分からないという場合はあり得ます。とくにすぐには分からないという場合は多くあるでしょう。するとこの場合は自分の知性のうちでも論理づけることができないのですから,それを他者に対して説明することなどできる筈もありません。つまり観念の意識化というのは,同時に秩序と連結の意識化ということも意味しているのであり,それができないということがある人間に生じたとしても,何の不思議もないのです。
コメント
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