スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

KEIRINグランプリ2021&割合

2022-01-02 19:03:23 | 競輪
 12月30日に静岡競輪場で争われたKEIRINグランプリ2021。並びは吉田‐宿口‐平原の関東,郡司‐佐藤‐守沢の東日本,清水‐松浦の中国で古性は単騎。
 郡司がスタートを取って前受け。4番手に清水,6番手に吉田,最後尾に古性で周回。残り3周のバックから郡司が誘導との車間を開け始めました。ホームからまず動いたのは清水。郡司は突っ張り,清水は前に出られませんでした。松浦の後ろに続いていた吉田がコーナーから発進。古性も続き,バックで4人が郡司を叩いて打鐘。8番手になった清水がホームから発進。しかしバックで古性に接近したあたりで古性が発進。このスピードがよく,宿口も平原もほぼ無抵抗。あっさりと吉田を捲った古性が抜け出して優勝。古性に捲られた後から自力で発進した平原が2車身差で2着。清水の捲りに対応できなかったため,被される形になって発進が遅れた郡司が外から平原を追って半車身差の3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は8月のオールスター競輪以来の優勝。ビッグは2勝目でグランプリは初勝利。静岡は2018年2019年に記念競輪を連覇している得意バンク。このレースは関東勢の先行が有力。ただ番手の宿口は,メンバーの中では脚力では最も劣ると思われましたので,4番手を追走した選手は展開的に有利となりそうでした。古性は単騎でしたが,郡司が動けない展開になったこともあり,その位置を確保したことが優勝に繋がることに。ただ,単騎であったために最初から関東勢を追走するレースをしやすかったという面はあるでしょうから,かえって単騎になったのが幸いしたという見方もできるかと思います。

 第四部定理六から分かるように,もしもある受動感情に刺激されるaffici,あるいは同じことですが,何らかの感情affectusを受動するafficiということが,奴隷servusであることを意味するのであれば,現実的に存在するすべての人間は,奴隷であるといえます。あるいは少なくとも,奴隷であることから免れることはできないといえます。しかし第五部定理三が示しているように,僕たちは共通概念notiones communesを通じてその受動感情を明瞭判然と認識するcognoscereなら,その限りにおいて奴隷であることを免れます。いい換えればその限りにおいて自由の人homo liberとなるのです。したがって,もし完全に自由の人であるということができる人が現実的に存在するとすれば,その人は感情を受動するそのたびごとに,その受動感情を明瞭判然と認識する人であることになるでしょう。論理的にいえば,そのような人が現実的に存在するということが不可能ではありません。不可能ではありませんが,きわめて困難ではあるでしょう。とはいえ,感情を受動したときにそれを明瞭判然と認識する割合でいうなら,現実的に存在している人間のうちで,差があるということ,現に差があるということは明白だともいえるでしょう。したがってこの世界には,自由の人に近い人間もいれば奴隷に近い人間も現実的に存在しているのであって,完全なる自由の人はもしかしたら存在しないか,存在していたとしても僅かでしょうが,完全なる奴隷というのは,少なくとも完全なる自由の人よりは数多く存在しているのです。
                                   
 僕の見解opinioでいえば,奴隷から自由の人を目指す場合に重要なのは,そのこと自体を企図するということです。これも哲学的な説明をすれば,受動感情は明瞭判然と認識される限りで受動passioであるということを止めるというテーゼについて,それ自体を観念ideaとして有しているかいないかということは,奴隷と自由の人の差を大きく分かつのではないでしょうか。というのは,観念は必ず観念が観念である限りにおいて意志作用volitioを含んでいるのですから,この観念を有するということと,その観念を肯定するaffirmare意志作用を有するということは,実は同じことであるからです。つまりそうした人は,明瞭判然と認識することを肯定するのです。
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