スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

自浄能力&結果としての行動

2022-01-15 19:20:51 | 将棋トピック
 僕の吟味の内容は合理性の比較であったということをもって,あったとされる抗議に対する僕の解答はすべてです。僕は三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けていたとは最初から考えていませんでしたし,それを第三種の認識cognitio tertii generisで認識していたのです。文章の解釈は多様であって,それは読者に任されるものであると僕は思っていますが,とはいえ僕が三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けていたと思っていたというように解されたのは,僕にとってはとても不本意なことでした。
 なので抗議に対してこれ以上は何もいうことはないのですが,その後に生じた様ざまな出来事について,僕は思うところがいろいろとありました。せっかくの機会ですから,そうしたことについてもいくつか綴っていくことにします。
 三浦九段に対する処分は,再構成の中でもいったように,表面上は三浦九段が出すと確約した休場届を提出しなかったことに対するものであるということになっていました。というかそのように読めるものになっていました。ただ,コンピュータから指し手の援助を受けていたのか受けていなかったのかということは,処分の理由とは無関係に重要なことですので,このことについては外部の第三者委員会で調査されることになりました。そして調査の結果,その事実がなかったということが確かめられたのです。これは僕が考えていた通りの結論だったので,僕としては当然のものとして受け止めることができました。
 この調査結果により,当時の将棋連盟の会長であった谷川と,理事であった島は辞任しました。理事の中で島だけが辞任した理由は僕にははっきりとは分からなかったのですが,おそらくこの処分に最も関与していた理事が島であったからだと推測しました。ただこれだけでは収束せず,後に会員からの動議と投票により,ほかにも理事が解任されることになりました。
 僕はこういったことは,内部の結束を弱めるとしても,よいことだと思いました。それは将棋連盟という組織は,自浄能力がある組織であるということを,外部に示すのには大いに役立つと思ったからです。ほかと比べるのはよくないかもしれませんが,同じ公益社団法人である日本相撲協会と比較すれば,日本将棋連盟の方がよほど健全な組織であると僕には思えました。

 一口にオカルトといっても,その種別はいろいろあります。そしてそれは,個々の麻雀のプレイと関係ないところにまで及びます。僕は一般にゲンを担ぐというようなこともオカルトに入るといいました。それは,ゲンを担いだとしても,勝負の結果effectusとは無関係であるからです。つまり何らかのゲンを担ぐということが原因causaとなって,勝利という結果が生じるということはありません。スピノザの哲学でいえば,ゲンを担ぐということと勝負の結果との間の関係は,第一部公理三でいわれている関係には該当しません。そしてこれは勝負一般に該当するのですから,麻雀の勝負の場合にも,当然ながら妥当します。だからといって,ゲンを担ぐプレイヤーが存在しなくなるということはありません。それは近藤がいうように,それが心の拠り所となり得るからだというのは,ひとつの理由としてあるのではないでしょうか。
                                         
 たとえばお寺にお詣りに行くとか,プレイ中にお守りを忍ばせるといったようなことで,精神状態が安定するということはあり得ます。ですからそれによって受動感情に惑わされず,理性ratioに基づいてプレイすることができるようになるというケースは考えられないことではありません。これはつまり,ある種のオカルトに依拠することによって,理性に基づいて行動することができるようになるということです。スピノザが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』でいっているのは,あくまでも受動passioによって行動するのであっても,それが理性に基づく行動と一致するなら構わないということであり,上述の例とは異なります。上述の例は,受動による行動によって能動的な行動を発揮しやすくなるということなので,行動自体だけでいうと,スピノザが示しているのは受動であるのに対し,上述の例は能動actioであるからです。しかしそこには一致しているところもあるのであって,それは結果としての行動が,理性に基づいたものであるという点です。そしてある種のオカルトが,理性に基づくプレイの要因となるということが,麻雀の場合にも確かにあるのであって,だからオカルトを全面的には否定しないと近藤はいっているのだと,この部分を解釈することが可能であると僕は考えています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする