スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

和歌山グランプリ&事象の偏り

2022-01-12 21:54:36 | 競輪
 和歌山記念の決勝。並びは根田‐郡司‐佐藤の東日本,古性‐東口の近畿に神山,松本‐松浦‐岩津の西国。
 神山がスタートを取って古性の前受け。4番手に根田,7番手に松本で周回。残り3周のバックから松本が上昇開始。根田の横まで来ると根田がすぐさまに引き,4番手と7番手が入れ替わる隊列に。ホームに入って根田が発進。バックの入口で古性を叩くとそのまま全開で駆けていき打鐘。4番手に古性,7番手に松本の一列棒状に。ホームから松本が発進。岩津は続けず松浦とふたりで上昇していくと,根田との車間を開けていた郡司が発進。マークの佐藤が続き,優勝争いはこのふたり。佐藤も差を詰めましたが展開有利に運んだ郡司が優勝。佐藤が半車輪差の2着で東日本のワンツー。松本が不発になったため自力に転じた松浦が佐藤の後を追いましたが,これを古性がどかすと,古性マークの東口が直線で古性の内に進路を取って1車身半差で3着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は10月の平塚記念以来の優勝で記念競輪12勝目。和歌山記念は2016年以来の6年ぶりとなる2勝目。このレースは脚力で上位の郡司と松浦が揃って番手戦となりましたので,大きな助けを得られた方が優勝するのではないかと考えていました。根田が早い段階から全力で駆けたため,展開は郡司に有利に。この優勝は根田の貢献が大きかったといえるでしょう。

 近藤もまた自分なりの法則性を追求したのですが,結局のところ結論として得られたのは,何らかの法則性があるというわけではなく,事象は偏るということだけであったと語っています。要するに,よいことと悪いことが同じように繰り返すことはなく,よいことが続く場合もあれば悪いことが続く場合もあるということです。これを近藤はごく当たり前の考えだといっていますが,確かにそうだといえるでしょう。ですが,この事象に偏りがあるということを確たる考えとしてもっていさえすれば,オカルトに依拠してプレイする必要はないのです。何らかのオカルト的な要素によっていいことや悪いことが続くわけではなく,論理的な思考の下に,よいことが続く場合もあれば悪いことが続く場合もあるということが理解できるからです。ですからたとえ悪い結果が続いているときも,論理的な思考によって,その結果を受け入れることができるようになるでしょう。
                                        
 さらに一点,オカルトを全面的に否定しない理由を近藤をあげています。それは,精神状態が異なると同じ事柄に対しての見方が変わる場合があるという点です。近藤はこれを,同じ配牌を見ても,精神状態によってとらえ方が変わるのが人間であるといういい方で説明しています。ここでいわれている配牌とは,ある局が始まった時点での手の中の牌のことです。それが精神状態によって変わるというのは,たとえ同じ配牌でも,それがすごくよい配牌,得点の獲得を見込めそうだとか,高い得点が狙えそうだとかいったように感じられる場合もあれば,とてもではないが得点を獲得することは難しそうだと思えてしまう場合もあるということです。同じ配牌なのにそのようなことが生じるのは不思議に思えるかもしれませんが,そんなことはありません。たとえば第三部定理五一は,同一の人間が同一の対象から異なったときに異なった仕方で刺激されるafficiことがあるという意味のことをいっていますが,近藤がいっていることはこれと同じです。そして近藤はこの定理Propositioの理由を,同じ人間の精神状態の相違によって説明しているということです。だから同じ配牌でも,同じ人間が異なって感じることがあるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする