第四部定理一は,Xの十全な観念idea adaequataとXの混乱した観念idea inadaequataが,同じ人間の精神mens humanaのうちに同時に存在することがあるということを意味しています。このとき,定理Propositioの文章自体は,ある人間の精神のうちにXの混乱した観念があるとき,それはその人間の精神のうちにXの十全な観念が発生しても除去されないというように読解できます。しかし実際にはそれだけでなく,ある人間の精神のうちにXの十全な観念があるとき,その人間の精神のうちにXの混乱した観念が発生することは妨げられないということも含意されています。実際に人間の精神のうちでは,そうしたことも生じるのです。
スピノザはその一例を,第二部定理三五備考の中で示しています。そこではまず,人間の精神は太陽の位置を,実際にある位置よりは近くにあるように表象するimaginariということが示されています。そして以下のように続きます。
「もしあとで我々が太陽は地球の直径の六百倍以上も我々から離れていることを認識しても,我々はそれにもかかわらずやはり太陽を近くにあるものとして表象するであろう」。
太陽の位置に関する記述には誤りがあり,これは当時の通説です。しかしその点は気にする必要がありません。太陽の位置を正しく認識したとしても,僕たちの太陽の表象像imagoは変わらないということが主眼となっているのですから,Xの十全な観念は,Xの混乱した観念を排除しないばかりではなく,Xの混乱した観念の発生を妨害しないということも,この部分で語られているのは明らかだからです。
実際にこの備考Scholiumでスピノザが最もいいたかったことは,虚偽の積極性のことであって,人間の精神のうちにあるXの十全な観念と混乱した観念の関係のことではありません。ただ第四部定理一が何を意味しているのかということの参考にはなる部分であるといえます。
僕はオカルトの発生を,第二部定理一八の想起memoriaを例材に説明しました。この想起は,表象像imagoの想起のことですが,感情affectusの場合も有効です。なぜなら,かつてある表象像を知覚したときにある感情に刺激されたとするなら,後にその表象像を想起したときも,それと同じ感情に刺激されるafficiことがあり得るからです。つまり現実的に存在する人間は,ある事柄を想起するたびに,それを知覚したときに感じた感情と同じ感情に刺激されるのです。そしてこれは,表象像という混乱した観念idea inadaequataに伴った感情ですから,受動感情です。ですからある事柄を想起することによって,そのときに感じた感情に刺激され,その受動感情がプレイの要因となる場合はあるのであって,この場合は単に虚偽falsitasであるというだけでなく誤謬errorであることになります。
気を付けてほしいのは,想起自体は現実的に存在するすべての人間に生じるという点です。それがオカルトの発生となるのは,その想起に依拠してプレイするからです。つまりオカルトとデジタルの分岐点は,それに依拠するかしないかにあるのであって,物事を想起するかしないかという点にあるわけではありません。第二部定理一八は一般的な定理Propositioですから,デジタルに基づくプレイヤーであろうとオカルトに依拠するプレイヤーであろうと該当するのです。つまりデジタルに基づいてプレイするにしても,想起はするのです。プレイはそれに依拠しないだけです。ところが,それに伴って感情が発生すると,その感情に引きずられてプレイするということは起こり得ます。したがってこの種の誤謬は,オカルトに依拠するプレイヤーだけに生じるというわけではなく,デジタルに基づくプレイヤーにも生じ得ます。表象像を想起するということと,その表象像によってある感情に刺激されるということは,感情に刺激される場合に関しては同じことなのですが,デジタルであるかオカルトであるかの分岐点と,虚偽であるか誤謬であるかの分岐点は異なるのです。
オカルトに依拠するということは,合理性からは反しますが,麻雀のようなゲームでそうしたプレイヤーが発生することは,むしろ合理的に説明することができることは分かりました。
スピノザはその一例を,第二部定理三五備考の中で示しています。そこではまず,人間の精神は太陽の位置を,実際にある位置よりは近くにあるように表象するimaginariということが示されています。そして以下のように続きます。
「もしあとで我々が太陽は地球の直径の六百倍以上も我々から離れていることを認識しても,我々はそれにもかかわらずやはり太陽を近くにあるものとして表象するであろう」。
太陽の位置に関する記述には誤りがあり,これは当時の通説です。しかしその点は気にする必要がありません。太陽の位置を正しく認識したとしても,僕たちの太陽の表象像imagoは変わらないということが主眼となっているのですから,Xの十全な観念は,Xの混乱した観念を排除しないばかりではなく,Xの混乱した観念の発生を妨害しないということも,この部分で語られているのは明らかだからです。
実際にこの備考Scholiumでスピノザが最もいいたかったことは,虚偽の積極性のことであって,人間の精神のうちにあるXの十全な観念と混乱した観念の関係のことではありません。ただ第四部定理一が何を意味しているのかということの参考にはなる部分であるといえます。
僕はオカルトの発生を,第二部定理一八の想起memoriaを例材に説明しました。この想起は,表象像imagoの想起のことですが,感情affectusの場合も有効です。なぜなら,かつてある表象像を知覚したときにある感情に刺激されたとするなら,後にその表象像を想起したときも,それと同じ感情に刺激されるafficiことがあり得るからです。つまり現実的に存在する人間は,ある事柄を想起するたびに,それを知覚したときに感じた感情と同じ感情に刺激されるのです。そしてこれは,表象像という混乱した観念idea inadaequataに伴った感情ですから,受動感情です。ですからある事柄を想起することによって,そのときに感じた感情に刺激され,その受動感情がプレイの要因となる場合はあるのであって,この場合は単に虚偽falsitasであるというだけでなく誤謬errorであることになります。
気を付けてほしいのは,想起自体は現実的に存在するすべての人間に生じるという点です。それがオカルトの発生となるのは,その想起に依拠してプレイするからです。つまりオカルトとデジタルの分岐点は,それに依拠するかしないかにあるのであって,物事を想起するかしないかという点にあるわけではありません。第二部定理一八は一般的な定理Propositioですから,デジタルに基づくプレイヤーであろうとオカルトに依拠するプレイヤーであろうと該当するのです。つまりデジタルに基づいてプレイするにしても,想起はするのです。プレイはそれに依拠しないだけです。ところが,それに伴って感情が発生すると,その感情に引きずられてプレイするということは起こり得ます。したがってこの種の誤謬は,オカルトに依拠するプレイヤーだけに生じるというわけではなく,デジタルに基づくプレイヤーにも生じ得ます。表象像を想起するということと,その表象像によってある感情に刺激されるということは,感情に刺激される場合に関しては同じことなのですが,デジタルであるかオカルトであるかの分岐点と,虚偽であるか誤謬であるかの分岐点は異なるのです。
オカルトに依拠するということは,合理性からは反しますが,麻雀のようなゲームでそうしたプレイヤーが発生することは,むしろ合理的に説明することができることは分かりました。