スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯棋聖戦&テクスト

2019-06-19 19:20:42 | 将棋
 万松寺で指された第90期棋聖戦五番勝負第二局。
 豊島将之棋聖の先手で角換り相腰掛銀。わりとスピーディーに進みましたので双方に研究があったと推測されますが,先手の研究に穴があったようで,渡辺明二冠が角を打ち込んだところでは優位に立ったのではないかと思います。
                                        
 後手が6六に歩を打って先手の金が6七から逃げたところ。ここで☖8六歩☗同銀と突き捨てて☖6九銀と打ちました。
 この手は最善ではなかったらしく,本当は☖7六銀☗7八王☖5六桂と進めて下に落とした方がよかったようです。先手は☗6六金と取りました。数手前に打った歩で,その段階では取れなかったため,ここで取られる手を後手は軽視していたかもしれません。
 目につくのは☖同銀☗同王☖6八角成ですが,これは☗2四飛と走られたときに先手玉に詰めろを掛けるのが難しくなってしまうようです。よって☖7六銀☗同金☖同桂と進めました。
 これでも先手は☗2四飛です。後手は☖3一金と引いて銀を取りにいきました。
                                        
 ここで☗2三飛成としましたが,飛車が2四から動くと先手玉に詰みがありました。ここで先手に手がないとなると逆転には至っていなかったということになります。
 渡辺二冠が勝って1勝1敗。第三局は29日です。

 僕がスピノザの哲学において「我」は形相的にformaliterもある,もっと一般的にいえば人間の身体humanum corpusは形相的に存在すると考えるのにはふたつの理由があります。そのうちのひとつは,純粋に『エチカ』のテクストはそれを肯定していると読解できるという点にあります。
 スピノザは人間の本性natura humanaということで,人間の精神mens humanaを意味させる場合があります。これには確固たる理由があるのですが,それはここでは措いておきます。ただ,スピノザがこのようにいうので,「我」というのは形相的にも存在するのかという主旨の疑問が生じやすくなっていることは事実でしょう。
 確かにスピノザは人間の本性といって人間の精神を意味させる場合がありますが,これと別に身体の本性があることも認めます。たとえば第五部定理二二には人間の身体の本性という意味のことがいわれています。この定理Propositioでいわれている本性は現実的本性actualis essentiaのことなので現実的に存在するあるいはしている人間の身体の本性,いい換えれば時間tempusのうちに持続している人間の身体の本性のことです。しかるに第二部定義二の意味は,事物の本性はその事物の存在existentiaを鼎立するということでした。よって人間の身体の現実的本性とは,その人間の身体の現実的存在を鼎立する本性なのです。よって人間の身体に現実的本性があるということは,人間の身体は現実的に存在するという意味でなければならないことになります。
 同じようなことは,第二部定理一三系からもいえます。ここでははっきりと人間の身体は僕たちがそれを感じる通りに存在するCorpus humanum, prout ipsum Sentimus, existereといわれているからです。この系Corollariumは第二部定理一三からの帰結,すなわち僕たちの精神Mentemの現実的有を構成するconstitutens観念の対象ideatumが僕たちの身体であるということからの帰結ではあるのですが,だからといって精神だけが現実的有であるというわけではなく,その観念の対象である身体の方も現実的有なのであるということも事実なのです。認識cognitioは思惟作用ですから,僕たちが何かを認識するとすれば僕たちの身体が認識するのではなく僕たちの精神が認識するのですが,認識されているものも認識しているものも,同じように現実的有として存在するのだとこのテクストはいっています。
コメント
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