スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ベイサイドナイトドリーム&永遠と持続

2019-06-10 18:58:17 | 競輪
 四日市競輪場で行われた昨晩のベイサイドナイトドリームの決勝。並びは山岸‐武藤の関東,岡本-柴崎の中部,宮本-小岩の西国,松本-阿竹-北村の四国。
 宮本がスタートを取って前受け。3番手に山岸,5番手に松本,8番手に岡本で周回。残り3周のバックを出ると岡本が上昇。ホームで誘導を斬った宮本を叩きました。このラインに続いた松本がさらに外を上昇。バックで岡本の前に出ましたが,岡本は引かず,打鐘から内の岡本と外の阿竹で番手戦。隊列が短くなったところで引いた宮本が発進。松本の前に出ましたが,ホームで小岩が離れてしまったため,松本が番手に嵌りました。さらに追い上げてきた山岸が競り合いを制した阿竹の外から松本の後ろを取り,松本マークの阿竹はその後ろの内で山岸マークの武藤と併走に。直線の手前から先に踏み込んだ山岸をみて松本も発進。しかし山岸の差し脚が優って優勝。松本が4分の3車輪差で2着。半車輪差の3着は写真判定となり,松本と山岸の間を突いた武藤。逃げ粘った宮本がタイヤ差で4着。
 優勝した茨城の山岸佳太選手は2月の取手のFⅠ以来の優勝。記念競輪は一昨年の小田原記念以来となる2勝目。この開催は競走得点の高い選手が少なかったため,当初から混戦になると予想されました。その中で得点上位だった阿竹が3連勝で決勝に進出してきたのですが,番手戦の場合は前の選手次第では共倒れということも考えられ,その場合には展開が向いた選手の優勝もありそうでした。松本は先行はしようとしたのですが,岡本に粘られたため阿竹は苦しくなりました。宮本の番手に嵌った松本が展開有利かに思えましたが,その前に脚を使っていた分,うまく3番手に入った山岸の方に利があったというレースでした。

 基本的に数学あるいは幾何学が合理的なものでなければならないとスピノザが考えていたとすれば,理性ratioによる認識cognitioをスピノザがどう規定しているのかが,数学の対象をどこに求めるのかという点で重要になります。
                                   
 第二部定理四四系二は,理性の本性natura Rationisはものresを永遠の相aeternitatis specieの下に認識するpercipereことに属するといっています。ですから,数学の対象となるものは,永遠の相の下に把握されるものでなければなりません。スピノザの哲学において永遠と対義語関係になるのは持続duratioです。ですから逆にいえば,持続するdurareものあるいは持続しているものは,数学の対象とはいえないのです。すると,現実的に存在している事物というのは,持続のうちに存在していることになりますから,それはスピノザにとっての数学の対象にはなりません。つまりスピノザは,円の定義Definitioは虚構を含んでいて,その虚構の内実というのは,現実的に存在する円は,円の定義に含まれている起成原因causa efficiensによって現実的に存在するようになるわけではない,あるいはそのようにして現実的に存在するようになるとは限らないということであったのですが,このうち現実的に存在する円というのは数学の対象に含まれていないのです。
 これは逆にいえば,知性intellectusが円を概念するconcipereのに資する円の定義,すなわち一端が固定しもう一端が運動することによって作成される図形であるという定義は,知性が円を永遠の相の下に認識するcognoscereために資する定義であるという意味だったことになります。このゆえにこの円の定義は数学の対象としては成立するのです。というか,別に数学の対象とする場合に限らないのであって,円について合理的に考える場合には成立するということになるのです。
 問題は,知性がこのように円を概念するなら,それは円の十全な観念idea adaequataであり,よって第二部定理七系の意味によってそれは神Deusの無限知性intellectus infinitusのうちにある円の観念と同一であるがゆえに,第二部定理七系によってこの円の観念の対象ideatumが知性の外に形相的にformaliterも存在するといわなければならない点です。理性は永遠の相の下に事物を認識するのですが,認識されることになるその事物は,永遠の相の下に,しかも形相的に存在しなければなりません。
コメント
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