昨晩の第42回帝王賞。
スーパーステション,インティ,シュテルングランツと逃げたい馬が3頭いましたので,まず先行争いに注目していました。押していったスーパーステションを外からインティが楽に抜いて前に。シュテルングランツはさらにその外から押していき,インティを抜いて強引に逃げに持ち込みました。2番手にインティ,3番手にスーパーステションと前の並びが決まり,4番手がチュウワウィザードで5番手にモジアナフレイバー。6番手はリッカルドとミツバ。8番手にアポロケンタッキーとノンコノユメ。10番手にグレイトパールとオールブラッシュ。12番手にオメガパフュームとサブノクロヒョウ。最後尾にサウンドトゥルーという隊列で1周目の正面を通過。向正面に入るあたりでシュテルングランツのリードは3馬身。3番手のスーパーステションと4番手のチュウワウィザードの差が2馬身。さらに5番手のモジアナフレイバーとの差も3馬身と,前はばらばらになりました。前半の1000mは61秒2のハイペース。
3コーナーでシュテルングランツのリードは1馬身半くらいに。インティは楽に追い掛けましたがスーパーステションは脱落。チュウワウィザードが外から追い掛けてきました。直線に入るとすぐにインティが先頭に。追ってきたチュウワウィザードがインティを抜いて先頭に出ると,一旦は抜け出したのですが,コーナーでよい手応えで外から追い上げていたオメガパフュームが大外から伸び,チュウワウィザードを差して優勝。チュウワウィザードが1馬身4分の1差で2着。チュウワウィザードとオメガパフュームの間から鋭く伸びたノンコノユメがアタマ差まで迫って3着。
優勝したオメガパフュームは東京大賞典以来の大レース2勝目。ここはチュウワウィザード,オメガパフューム,インティの能力がほかより上。ただ,大井の2000mとなるとスピード寄りのインティは苦しむケースも考えられ,優勝候補はチュウワウィザードとオメガパフュームではないかと思っていました。結果的にその2頭での決着となったわけですが,オメガパフュームの方に凱歌が上がったのは,展開の影響が大きかったと思いますので,はっきりとした能力の差があるわけではないと思われます。思い切って控えた騎手の判断が最大の勝因といっていいかもしれません。母の父はゴールドアリュール。従姉に昨年の愛知杯を勝ったエテルナミノル。
騎乗した船橋の短期免許を取得しているダミアン・レーン騎手は宝塚記念に続き日本での,また日本馬での大レース3勝目。管理している安田翔伍調教師は東京大賞典以来の大レース2勝目。
近藤はバディウAlain Badiouについて,数学を集合論だと思っていて,公理論的方法を理解していないという主旨のことをいっていました。それに続けて,カヴァイエスJean Cavaillèsの立場に立つのであればそれは違うといっています。カヴァイエスが考えたスピノザ主義は,集合論と無関係であるとはいえないけれど,本質的な意味では関係ないと断定しています。これでみれば分かるように,カヴァイエスはスピノザについては,公理論的方法を用いる哲学者,数学的にいえば公理論者として理解していたことになります。一方,カヴァイエス自身は数理哲学者であって,数学者ではありません。ですがこの近藤の一連の発言からみれば,数学的には公理論者であったとみることができます。そうであるなら,公理系が真verumであるということを公理系では証明できないというゲーデルの不完全性定理が,カヴァイエスにとって重大な問題となったということは大いにあり得そうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/dc/0e2a5012e5e94563eb89762c73cf0f76.jpg)
カヴァイエスがそれをどのように受け止めたのか,あるいは受け止めざるを得なかったのかということも,近藤は説明しています。これについては僕が再構成します。
カヴァイエスにとって数学は,理性ratioによる推論によって成就されるものであれば最も好ましいものでした。カヴァイエスにとってそうした認識cognitioが学知scientiaといわれるものでなければならなかったからです。公理系の証明Demonstratioはこうした方法によってなされるものでしたから,カヴァイエスは公理的方法による認識を学知と考えていたと判断してもいいでしょう。ところがゲーデルの不完全性定理は,それだけでは学知が充足され得ないということを意味していました。ではどのような仕方で学知を成就させることが可能になるのかということをカヴァイエスは考え,その考えの下に成立したのがカヴァイエスに独自の数理哲学であったのです。
理性による推論に限界があるという点は,カヴァイエスもゲーデルKurt Gödelに従っていました。ですが理性による推論ではないような認識というのはあるのであり,かつそういう認識があるということ自体は推論だけで肯定できるというのが基本的なカヴァイエスの立場です。つまりここには推論の限界という問題があったのです。
スーパーステション,インティ,シュテルングランツと逃げたい馬が3頭いましたので,まず先行争いに注目していました。押していったスーパーステションを外からインティが楽に抜いて前に。シュテルングランツはさらにその外から押していき,インティを抜いて強引に逃げに持ち込みました。2番手にインティ,3番手にスーパーステションと前の並びが決まり,4番手がチュウワウィザードで5番手にモジアナフレイバー。6番手はリッカルドとミツバ。8番手にアポロケンタッキーとノンコノユメ。10番手にグレイトパールとオールブラッシュ。12番手にオメガパフュームとサブノクロヒョウ。最後尾にサウンドトゥルーという隊列で1周目の正面を通過。向正面に入るあたりでシュテルングランツのリードは3馬身。3番手のスーパーステションと4番手のチュウワウィザードの差が2馬身。さらに5番手のモジアナフレイバーとの差も3馬身と,前はばらばらになりました。前半の1000mは61秒2のハイペース。
3コーナーでシュテルングランツのリードは1馬身半くらいに。インティは楽に追い掛けましたがスーパーステションは脱落。チュウワウィザードが外から追い掛けてきました。直線に入るとすぐにインティが先頭に。追ってきたチュウワウィザードがインティを抜いて先頭に出ると,一旦は抜け出したのですが,コーナーでよい手応えで外から追い上げていたオメガパフュームが大外から伸び,チュウワウィザードを差して優勝。チュウワウィザードが1馬身4分の1差で2着。チュウワウィザードとオメガパフュームの間から鋭く伸びたノンコノユメがアタマ差まで迫って3着。
優勝したオメガパフュームは東京大賞典以来の大レース2勝目。ここはチュウワウィザード,オメガパフューム,インティの能力がほかより上。ただ,大井の2000mとなるとスピード寄りのインティは苦しむケースも考えられ,優勝候補はチュウワウィザードとオメガパフュームではないかと思っていました。結果的にその2頭での決着となったわけですが,オメガパフュームの方に凱歌が上がったのは,展開の影響が大きかったと思いますので,はっきりとした能力の差があるわけではないと思われます。思い切って控えた騎手の判断が最大の勝因といっていいかもしれません。母の父はゴールドアリュール。従姉に昨年の愛知杯を勝ったエテルナミノル。
騎乗した船橋の短期免許を取得しているダミアン・レーン騎手は宝塚記念に続き日本での,また日本馬での大レース3勝目。管理している安田翔伍調教師は東京大賞典以来の大レース2勝目。
近藤はバディウAlain Badiouについて,数学を集合論だと思っていて,公理論的方法を理解していないという主旨のことをいっていました。それに続けて,カヴァイエスJean Cavaillèsの立場に立つのであればそれは違うといっています。カヴァイエスが考えたスピノザ主義は,集合論と無関係であるとはいえないけれど,本質的な意味では関係ないと断定しています。これでみれば分かるように,カヴァイエスはスピノザについては,公理論的方法を用いる哲学者,数学的にいえば公理論者として理解していたことになります。一方,カヴァイエス自身は数理哲学者であって,数学者ではありません。ですがこの近藤の一連の発言からみれば,数学的には公理論者であったとみることができます。そうであるなら,公理系が真verumであるということを公理系では証明できないというゲーデルの不完全性定理が,カヴァイエスにとって重大な問題となったということは大いにあり得そうです。
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カヴァイエスがそれをどのように受け止めたのか,あるいは受け止めざるを得なかったのかということも,近藤は説明しています。これについては僕が再構成します。
カヴァイエスにとって数学は,理性ratioによる推論によって成就されるものであれば最も好ましいものでした。カヴァイエスにとってそうした認識cognitioが学知scientiaといわれるものでなければならなかったからです。公理系の証明Demonstratioはこうした方法によってなされるものでしたから,カヴァイエスは公理的方法による認識を学知と考えていたと判断してもいいでしょう。ところがゲーデルの不完全性定理は,それだけでは学知が充足され得ないということを意味していました。ではどのような仕方で学知を成就させることが可能になるのかということをカヴァイエスは考え,その考えの下に成立したのがカヴァイエスに独自の数理哲学であったのです。
理性による推論に限界があるという点は,カヴァイエスもゲーデルKurt Gödelに従っていました。ですが理性による推論ではないような認識というのはあるのであり,かつそういう認識があるということ自体は推論だけで肯定できるというのが基本的なカヴァイエスの立場です。つまりここには推論の限界という問題があったのです。