スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第二部公理五の意味&ヒント

2019-06-15 19:08:36 | 哲学
 チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausはある人間が現実的に存在するとき,その人間が現実的に存在するのと同一の原因causaと結果effectusの連結connexioと秩序ordoによって存在する様態modiが,思惟Cogitatioおよび延長Extensioの属性attributum以外の属性のうちにもあり,仮にそれを身体´と規定すれば,身体corpusの観念ideaと身体´の観念は同じ思惟の属性から同じ原因と結果の連結と秩序で発生するがゆえに,身体の観念と身体´の観念はことばの上では分けることができても,実際には区別不能な同一の観念であるがゆえに,身体の観念であるその人間の精神mens humanaは,身体が様態となっている延長の属性だけでなく,身体´が様態となっている属性も認識せねばならず,かつ属性は無限に多くあるので,無限に多くのinfinita属性のどれにも身体´という様態は存在しなければならないので,人間の精神は無限に多くの属性を認識しなければならないと主張したのだと僕は解します。したがってスピノザに対するチルンハウスの異議というのは,僕が大胆な主張であるといった第二部定理七備考と,第二部公理五との間には齟齬があるという点にその中心があることになります。
                                   
 第二部定理七備考を僕が大胆だといったのは,第二部公理五からしてこの主張は僕たちには確認のしようがないからでした。ただ,確認ができないということはそれが誤りerrorであるという意味ではなく,正しいか誤っているのかが分からないという意味なのですから,実際にはそのスピノザの言い分が正しい可能性が残ります。同時にこのこと自体から分かるように,僕にはそれは誤りであると主張する手立てがないわけですから,僕はこの点では大胆な主張は真理veritasであるという仮定の下に話を進めます。
 一方,第二部公理五は,僕たちが認識するcognoscere様態について述べていて,属性について言及しているわけではありません。ただ,第一部公理四によって,結果の認識cognitioは原因の認識を含んでいるのでなければならず,かつ第二部定理六によって,各々の様態はそれが様態となっている属性の下でのみ神Deusを原因とするのですから,AがX属性の様態であるとしたら,Aを認識できるのであればXも認識できるのでなければなりません。つまり第二部公理五の意味のうちには,人間が認識する属性は延長の属性と思惟の属性のみであるということが含まれていなければなりません。ですからチルンハウスの論理に従う限り,第二部定理七備考と第二部公理五の間に齟齬があるという結論は確かに出てくるということだけは僕は認めます。

 実体substantiaとしての量というのを概念するconcipereことは,唯物論的思考に慣れていようと観念論的思考に慣れていようと同様に困難なことであるといえるでしょう。したがって事物の形相的有esse formaleが,現実的にいい換えれば持続duratioのうちに存在するだけではなく,その事物が様態modiとなっている属性attributumのうちに包容されて,すなわち永遠aeterunusのうちに存在するということを理解することも,同じだけの困難さを秘めているといえます。そこでスピノザの哲学のこの部分を,そういった思考に慣れている人が理解するために,どのように解するのがよいかということのヒントをこれから提示していきます。
 まず最初に,概括的な説明をします。この部分はヒントの前提となる部分なので,このことを理解していないと僕がその後にいうことは何のヒントにもならないでしょう。
 スピノザの哲学は平行論という独自のあるいは独特の理論を有しています。このとき,平行論というのは,認識論あるいは観念論ではなく平行論であるという意味であり,また唯物論ではなく平行論であるという意味でもあります。つまりスピノザの哲学は観念論でもなく唯物論でもないのであって,その哲学が平行論といわれていると解しておくのがよいでしょう。この場合,平行論というのがどのような論理であるかは理解していなくても構いません。それは唯物論でも観念論でもないということさえ分かっていれば十分です。
 僕がスピノザの哲学を詳しく学習するようになったとき,これは『エチカ』を熟読するようになったときという意味ですが,この哲学は観念論よりは唯物論に近いものだという印象をもちました。ただしこの印象が普遍的なものであるとはいえないと思います。僕がなぜスピノザの哲学を詳しく研究するようになったのかということは,かつて詳細に説明しましたので,その部分を読んでください。簡潔にいうなら,僕は世界の始原というものを考えたときに,絶対的な意志voluntasという概念notioに行き当たりました。それがスピノザの哲学でどのように語られていたかを確かめたときに,それは絶対的な意志ではなく,神Deusすなわち絶対に無限な実体の本性naturaの必然性necessitasであるという考え方の方へと移行していったのです。
コメント
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