日本時間で19日の深夜にイギリスのアスコット競馬場で行われたプリンスオブウェールズステークスGⅠ芝1990m。
ディアドラは好発から3頭が並んだ真中の2番手。このレースはこのときに外にいた馬が勝ち,内にいた馬が2着になるのですが,この2頭は最初から牽制し合うようなレースでした。おそらくそれを避けるために下げ,外に出して4番手に。最初のコーナーに向けて隊列が徐々に長くなっていき,そこから後ろの馬が追い上げるという展開。ディアドラは手を動かしながら外目を上昇。直線に入ってからやや挟まれるようなところはありましたが,立て直されてからの伸び脚からすると大勢に影響するような不利ではなく,勝ち馬からおよそ13馬身4分の1差の6着でした。
ここは相手が強く,先着された5頭のうち何頭を負かすことができるのかというようなレースだと思っていました。1頭も負かせなかったわけですが,逆にいえば順当な結果だったということでしょう。コース自体が傾斜が多いタフなものであり,なおかつ土砂降りの雨という悪コンディションでしたから,日本で走るのとはわけが違った筈で,仕方がない結果だったと思います。
延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumは異なった属性です。ですから延長の属性の個物res singularisと思惟の属性の個物とは実在的に区別されなければなりません。つまりある人間の身体humanum corpusとその人間の精神mens humanaは実在的に区別される別の事物であるということになります。

次にスピノザの哲学では観念ideaというのは必ず何かの観念です。他面からいえば観念には必ず観念対象ideatumが存在します。たとえば第一部公理六はこれを前提としないと成立しないからです。スピノザの哲学では観念の観念idea ideaeという思惟の様態cogitandi modiが存在します。この場合は観念も観念の対象も同じ思惟の属性の様態であるということになります。しかしこの場合を別とするなら,観念の対象となる属性は思惟の属性と異なる属性です。よって観念とその対象は,基本的に実在的に区別されるといわなけれなりません。区別されるということは,同一の事物ではなく異なった事物であるという意味です。
さらに,第二部公理三は,思惟の様態の第一のものは観念であるということを意味します。したがって人間の精神というのは思惟の属性の個物ですから,その有esseの最初のものは観念によって構成されていなければなりません。これは人間が現実的に存在するといわれる場合には,第二部定理一一とか第二部定理一三から明らかです。よって人間の精神は観念であり,観念であるからにはその対象があります。つまり人間の精神とその有を構成する観念の対象は実在的に区別される別の事物でなければなりません。
ここから理解できるのは,もし人間の精神が存在するというならその有を構成する観念の対象も存在するといわなければならないということです。よって人間の精神の有を構成するその観念の対象がその人間の身体であるのなら,人間の精神が存在するならその人間の身体もまた存在しなければなりません。いい換えれば,人間が存在するのなら実在的に区別されるものとして身体と精神が存在するのであって,そうでないなら人間は存在しないといわなければならないのです。ですが人間が存在しないというのはそれ自体で不条理です。つまり人間の身体は形相的にformaliter存在します。よって「我」は形相的にも存在するという結論が出てきます。
ディアドラは好発から3頭が並んだ真中の2番手。このレースはこのときに外にいた馬が勝ち,内にいた馬が2着になるのですが,この2頭は最初から牽制し合うようなレースでした。おそらくそれを避けるために下げ,外に出して4番手に。最初のコーナーに向けて隊列が徐々に長くなっていき,そこから後ろの馬が追い上げるという展開。ディアドラは手を動かしながら外目を上昇。直線に入ってからやや挟まれるようなところはありましたが,立て直されてからの伸び脚からすると大勢に影響するような不利ではなく,勝ち馬からおよそ13馬身4分の1差の6着でした。
ここは相手が強く,先着された5頭のうち何頭を負かすことができるのかというようなレースだと思っていました。1頭も負かせなかったわけですが,逆にいえば順当な結果だったということでしょう。コース自体が傾斜が多いタフなものであり,なおかつ土砂降りの雨という悪コンディションでしたから,日本で走るのとはわけが違った筈で,仕方がない結果だったと思います。
延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumは異なった属性です。ですから延長の属性の個物res singularisと思惟の属性の個物とは実在的に区別されなければなりません。つまりある人間の身体humanum corpusとその人間の精神mens humanaは実在的に区別される別の事物であるということになります。

次にスピノザの哲学では観念ideaというのは必ず何かの観念です。他面からいえば観念には必ず観念対象ideatumが存在します。たとえば第一部公理六はこれを前提としないと成立しないからです。スピノザの哲学では観念の観念idea ideaeという思惟の様態cogitandi modiが存在します。この場合は観念も観念の対象も同じ思惟の属性の様態であるということになります。しかしこの場合を別とするなら,観念の対象となる属性は思惟の属性と異なる属性です。よって観念とその対象は,基本的に実在的に区別されるといわなけれなりません。区別されるということは,同一の事物ではなく異なった事物であるという意味です。
さらに,第二部公理三は,思惟の様態の第一のものは観念であるということを意味します。したがって人間の精神というのは思惟の属性の個物ですから,その有esseの最初のものは観念によって構成されていなければなりません。これは人間が現実的に存在するといわれる場合には,第二部定理一一とか第二部定理一三から明らかです。よって人間の精神は観念であり,観念であるからにはその対象があります。つまり人間の精神とその有を構成する観念の対象は実在的に区別される別の事物でなければなりません。
ここから理解できるのは,もし人間の精神が存在するというならその有を構成する観念の対象も存在するといわなければならないということです。よって人間の精神の有を構成するその観念の対象がその人間の身体であるのなら,人間の精神が存在するならその人間の身体もまた存在しなければなりません。いい換えれば,人間が存在するのなら実在的に区別されるものとして身体と精神が存在するのであって,そうでないなら人間は存在しないといわなければならないのです。ですが人間が存在しないというのはそれ自体で不条理です。つまり人間の身体は形相的にformaliter存在します。よって「我」は形相的にも存在するという結論が出てきます。