スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ドストエフスキイその生涯と作品&難解な要素

2019-06-14 18:59:58 | 歌・小説
 『ドストエフスキイの生活』と同じように,ドストエフスキーの伝記的要素が入った評論に,埴谷雄高の『ドストエフスキイその生涯と作品』があります。『ドストエフスキイの生活』は1939年に単行本化されたもので,『ドストエフスキイの生涯と作品』は1965年に発売されたもの。『ドストエフスキイの生活』よりは新しいものの,僕が産まれる前の評論ですから,ある意味では古典といえるかもしれません。
                                       
 埴谷雄高は1965年の4月から,NHKFMで「人と思想」という講座を行いました。基となっているのはその講座なのですが,大幅な補筆があると本人があとがきに記しています。
 小林秀雄は評論家ですが,埴谷雄高は評論家というよりは小説家です。ですから伝記的部分については独自に調査したわけではないようで,米川正夫の『ドストエフスキイ研究』とデヴィッド・マガーシヤックの『ドストエフスキイ』に多くを負ったとしています。僕はそれらは未読なのでどのような内容なのか分かりませんが,伝記の部分に関連する信頼性は,むしろそれらふたつの著書の信頼性に依存すると考えておくのがよいかと思います。
 この本で語られているのは,ひとつはドストエフスキーが小説を書くにあたっての方法論についてで,もう一点が小説を書くに際してのドストエフスキーの思想です。これらは一律のものではなく,方法論についてもドストエフスキー自身の思想についても,変化,本人のことばでいえば発展があったというのが埴谷の考えで,それを伝記的な側面からも裏付けることが意図されています。なので伝記を書くということは埴谷の本来の目的ではなく,伝記は埴谷自身の説の裏付けのために必要とされていたと考えておくのがいいでしょう。ということは,史実の中でも埴谷の説に有力な部分だけが切り取られている可能性が残るということになり,この本を読むにあたっての最大の注意点はその点になるかと思います。
 ドストエフスキーに関する評論は難解なものがほとんどなのですが,この本は例外的に読みやすくできています。それはたぶん不特定多数の聴者を相手にした講座が基になっているからだと思います。ドストエフスキー評論の入門書という観点からとても優れた著作であると思います。

 スピノザの哲学において,形相的有esse formaleいい換えれば知性intellectusを離れた事物が数学の対象になり得るということ,すなわち,形相的有も永遠の相species aeternitatisの下に存在するということがどういうことであるかは分かりました。第二部定理四四系二は,理性の本性natura Rationisはものresを永遠の相の下に認識するpercipereことにあるといっているので,このことは別に数学の対象に限ったことではなく,おおよそ合理的な思考の対象となり得るということを意味します。ただ,スピノザの哲学の中でもこの部分は,理解するのに難解な要素を含んでいると僕は思うのです。というのも,多くの場合は形相的有というものを,第一部定理一五備考でいわれている実体substantiaの量という概念conceptusから考えるのではなく,現実的に存在している事物を表象するimaginariことによって判断するからです。他面からいえば,個物の存在というもの,とりわけ物体corpusの存在existentiaというものを,属性attributumに包容される限りで存在するという場合を除外し,時間的に持続するdurareといわれる限りで存在するものとのみ理解してしまうからです。
 このことは,観念論あるいは認識論的な思考に慣れているか,それとも唯物論的な思考に慣れているかということに関わらずに成立します。とはいえ,認識論的な思考を重視するのであれば,このことはそう大きな問題とはなりません。たとえばデカルトの数学がそうであったように,単に認識されるものだけが学術ないしは合理的思考の対象となるとするのであれば,現実的に存在する事物であろうとそうでなかろうと,形相的有が合理的な思考の対象になり得るのかどうかということがそもそも問題として措定されないからです。ですから認識論的思考に依存する限り,スピノザの哲学を十全に理解するということは困難になりますが,理解することが困難であるがゆえに,現実的に存在する事物は合理的思考の対象とはならないという点で一致をみることになり,本当の問題点が見えなくなってしまうのです。
 よって,合理的思考をする場合に,現実的に存在する事物はその対象とはなり得ないということが大きな問題となるのは,唯物論的な思考に慣れていて,かつ実体としての量というのを概念していない場合ということになります。
コメント
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