スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部諸感情の定義四&麻薬の入手

2018-07-22 19:00:40 | 哲学
 第三部諸感情の定義五の軽蔑は,ある事物の表象imaginatioであり,感情affectusではありません。これと同じように,感情ではないものの諸感情の定義に示されているある種の事物の表象があります。これは軽蔑に対立するような表象のあり方で,驚異と命名され,軽蔑のひとつ前の第三部諸感情の定義四で明らかにされています。
                                
 「驚異とはある事物の表象がきわめて特殊なものであってその他の表象と何の連結も有しないために,精神がその表象に縛られたままでいる状態である」。
 僕たちは大抵の場合は,ある事物を表象すればその表象像imagoから別の表象像に移行し,その別の表象像からさらにまた別の表象像へと移行するということを延々と繰り返します。こうしたことはスピノザがいう自然の秩序ordo naturae,知性の秩序とは逆の意味における自然の秩序に応じて生じます。知性の秩序は万人に共通ですが,自然の秩序はそうではないので,たとえばAという人間はXからYへと移行する,つまりXによってYを連想するけれども,Bという人間はXによってZを連想するということも起こり得ます。
 こうした連想は,AについていえばかつてXとYを結び付けたことがあるということから生じ得るのであり,BについてはXをZと結び付けいたことがあるということから説明できます。しかしここにAがSを表象し,このSをほかの一切の表象像と連関させることが不可能なら,AはSから何も連想できず,Sを表象した状態に縛り付けられます。これがスピノザがいう驚異であり,同時にそれが発生する簡単な仕組です。
 ですから驚異は表象したものに対しては肯定的でもあり得ますし否定的でもあり得ます。たとえばあまりに聡明であることを発見したがゆえに驚異するなら肯定的ですが,あまりに残虐であることを発見したがゆえに驚異するなら否定的でしょう。一般的には前者は尊敬といい,後者は戦慄というのが的確かと思いますが,その表象像に縛り付けられてしまうという点において,尊敬も戦慄も同じように驚異であるのです。

 11月20日,月曜日。母はKさんと本牧まで買い物に出掛けました。本牧は根岸駅まで出て,また乗り換える必要がありますが,このときもバスを使っています。このときに買ったのは,妹が入所施設に入ったときに必要になる寝具でした。寝具は重いですから持ち帰ることはせず,配達を依頼しています。
 11月21日,火曜日。この日も母は夕食の支度をするなど,この時点で自身にとって可能な家事をこなしていましたが,僕が見ている限りではそれまでより辛そうにしていました。ただしそれは癌の影響だったわけではなく,痔が出てしまったからだそうです。
 11月22日,水曜日。消化器内科の通院日でした。この日は11時半の予約でしたが,実際に診察が始まったのは正午を過ぎてから。この日はとくに何かするということはなく,主治医と話をしただけでした。前にもいったように主治医は母が延命治療をするべきと考えていましたから,このときも化学療法を勧められはしましたが,僕たちはその治療を断念するという方針を変更する気はないということを伝えました。食堂で昼食を摂り,午後1時15分に帰宅しました。薬の処方はありましたので,その後で僕は薬局へ。ついでですから痔の薬も買い求めました。これは注入軟膏です。痔の薬はいろいろと種類がありますが,注入軟膏にしたのは母がそれを所望していたからです。
 父も同じように横行結腸癌は末期,母よりもずっと進捗した状態で発見され,最終的に延命治療が不可能な状態になってしまいました。その後,癌による痛みを和らげるために麻薬を処方されています。このとき薬局で担当していた薬剤師から,今後に関して何か心配な点はないかということについて尋ねられましたので,ゆくゆくは麻薬が処方されるかもしれないが,それをこの薬局で入手することが可能であるかどうかを尋ねておきました。答えは,ここでも麻薬を処方することは可能であるけれども,すぐに処方することは難しいという,やや曖昧なものでした。僕は入手できるという意味に解したのですが,なぜこのような答え方をしたのかは,後に実際にそれを処方されたときに理解することになりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする