スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

瀬戸の王子杯争奪戦&着眼点

2018-03-11 18:51:47 | 競輪
 玉野記念の決勝。並びは山中‐福田の南関東,三谷‐志智の近畿中部,取鳥‐柏野‐堤の中四国,井上‐園田の九州。
 堤と福田がスタートを取りにいき,堤が内から誘導の後ろに入り,取鳥の前受け。4番手に山中,6番手に井上,8番手に三谷の周回に。残り3周のバックの出口で三谷が上昇。ホームの入口で取鳥の外まで上昇すると取鳥は自ら下げました。3番手に続いたのが井上。5番手に山中で,後ろまでは引かなかった取鳥がその内を併走。バックに入ると山中が園田のインに自転車を進めたため,取鳥は外に出して発進し打鐘。そのまま三谷を叩いて4番手に三谷,6番手に井上,8番手に山中の一列棒状に。バックから三谷が発進。柏野はこれを止められず,志智を外に振りました。ただその間に堤がインに潜ったので,前のふたりと3番手に間ができる形に。直線で差した三谷が優勝。逃げた取鳥が1車身差の2着。立て直した志智が4分の1車輪差で3着。
 優勝した奈良の三谷竜生選手は前回出走の奈良記念に続いて記念競輪3勝目。玉野記念は初優勝。このレースは三谷も井上も山中も捲りを主武器とするタイプなので,取鳥の先行が有力。前を取ったので場合によっては突っ張り先行もあるかと思いましたが,三谷がいい勢いで叩きにきたので下げました。もし山中がバックでそのまま取鳥に蓋をしたまま走行していれば,取鳥は先行するためにはさらに下げて巻き返す必要があり,たぶん三谷の成り行き先行になったのではないかと思います。山中にとってはその方がいい展開だった筈なので,とっさの判断だったのでしょうが失敗ではなかったでしょうか。逆に三谷は展開によっては先行することも辞さずという姿勢で前受けの取鳥を抑えにいった積極性が,優勝を引き出したレースであったように思います。

 混乱を回避するために,まずは感情affectus,とりわけ悲しみtristitiaそれ自体と,何が正当でありまた何が不当であるのかということとを分けて考察します。
                               
 第三部諸感情の定義三が示しているように,悲しみは現実的に存在する人間が大なる完全性perfectioから小なる完全性へ移行することです。第二部定義六から分かるように,ここでいわれている完全性は実在性realitasです。そして第三部定理六により,現実的に存在する人間は自己の有に固執する力potentiaすなわちコナトゥスconatusを有しています。第三部定理七は,このコナトゥスがその人間の現実的本性actualis essentiaであるということを示しています。これらのことを合わせて考えれば,現実的に存在する人間が悲しみを希求するいい換えれば悲しむことを欲望するということはあり得ないということが帰結します。他面からいえば,現実的に存在するある人間が悲しみを感じるとき,それはその人間のコナトゥスのみによって説明することは不可能であるということになります。よって現実的に存在する人間の悲しみは,その人間の外部の要因によって説明されなければなりません。つまり現実的に存在する人間は,外部から働きを受けるpati限りにおいて悲しみを感じるということになります。そして第四部定理四系により,現実的に存在する人間は受動passioすなわち働きを受けることに隷属するのですから,たとえその人間が悲しむことを欲望しないからといって,その人間が悲しまないでいることを回避することができるというわけではありません。
 このとき,もし悲しみが大なる完全性から小なる完全性への移行であるということに着目するなら,現実的に存在する人間が感じるいかなる悲しみも不当なものであるということができるでしょう。しかし逆に,現実的に存在する人間が外部から働きを受けないでいるということが不可能であるという点に着目するならば,現実的に存在する人間が感じるいかなる悲しみも正当なものであるということができるでしょう。
 ここから分かることは,僕たちが何が正当でありまた何が不当であると解するのかということは,実はそういわれる事物をどのような観点から着眼するのかということと大いに関係するということです。
コメント
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