②で呼び掛けた女は歌い手に会いたがっていました。でも歌い手の方はそうではありませんでした。そのことは歌い手によって歌われています。
会いたかったわ会いたかったわと無邪気はあの日のまま
会いたくなんかなかったわ私は急ぐふり
そして呼び掛けた女は歌い手に話し出します。それがドラマでそのまま用いられた①の部分です。
歌い手はなぜこの女とは会いたくなかったのか。それは容易に想像できます。そしてその想像通りのことが歌われます。
なにも気づいてないのね
今もあの日と同じね
もしもあなたなんか来なければ
今もまだ私たち続いたのね
これでこの楽曲は概ね半分です。そしてここまではひとつの物語として首尾一貫しているといえます。つまり歌い手がかつて付き合っていた男が,呼び掛けた女と出会うことによってその女に乗り換え,しかし呼び掛けた女の方は,かつてその男が歌い手の女と付き合っていたということを知らないがゆえに,歌い手の前で無邪気な態度でいられるということです。
ところが真相はそうではありません。楽曲はここから意外な方向へと転換していくのです。
Xに対する自己満足acquiescentia in se ipsoと,Xに対する自己嫌悪humilitasは,単に反対感情であるだけでなく,ひとりの人間のうちで相反する感情であるということは明白と思います。だれも同じ事柄に対して自己満足を感じると同時に自己嫌悪も感じるということは,第三部諸感情の定義二五と第三部諸感情の定義二六からあり得ないことが明白であるからです。それがあり得るなら,その人はある事柄に対して自身の働く力agendi potentiaを表象するimaginariと同時に自身の無能力impotentiaを表象していることになり,これはそれ自体で不条理であるからです。
第三部定理一七は,愛amorと憎しみodiumは反対感情であり,かつ同時にAに対する愛とAに対する憎しみは同一の人間のうちでは相反する感情であるけれど,同じ相手に愛も憎しみも感じてしまう心情の動揺animi fluctuatioが発生し得ることを示しています。自己満足と自己嫌悪の場合は,そういう心情の動揺が生じ得るということは『エチカ』では示されていませんが,やはり生じ得ると僕は考えます。たとえばAという人間がXという事柄について自己嫌悪に陥っているとき,他の人びとがまさにXがAに属するがゆえにAのことを称賛しているのを表象するなら,AはXについて自己満足を感じ得るからです。同様に,AがYについて自己満足を感じているとき,他の人びとがYがAに属するがゆえにAのことを非難するのを表象するなら,AはYについて自己嫌悪に陥ることがあり得るからです。第三部定理一七で示されているように,喜びlaetitiaおよび悲しみtristitiaの大きさについて細かい条件を付さなければならないのですが,Xに対する自己満足とXに対する自己嫌悪が,心情の動揺を起こす場合がないわけではないということは明らかではないでしょうか。
僕が岩波文庫版のように謙遜という訳語を用いず,それを自己嫌悪と訳すのには,ここまで示してきたように,自己満足と自己嫌悪は単に反対感情であるだけでなく,相反する感情でもあるという点にひとつの理由があるのです。僕たちは謙遜というのを感情affectusとしてよりは態度としてみなすのではないかと思いますが,仮にそれを感情であるとみなしたとしても,一般に謙遜は自己嫌悪ではなく,むしろ自己満足を意味すると僕は解するのです。
会いたかったわ会いたかったわと無邪気はあの日のまま
会いたくなんかなかったわ私は急ぐふり
そして呼び掛けた女は歌い手に話し出します。それがドラマでそのまま用いられた①の部分です。
歌い手はなぜこの女とは会いたくなかったのか。それは容易に想像できます。そしてその想像通りのことが歌われます。
なにも気づいてないのね
今もあの日と同じね
もしもあなたなんか来なければ
今もまだ私たち続いたのね
これでこの楽曲は概ね半分です。そしてここまではひとつの物語として首尾一貫しているといえます。つまり歌い手がかつて付き合っていた男が,呼び掛けた女と出会うことによってその女に乗り換え,しかし呼び掛けた女の方は,かつてその男が歌い手の女と付き合っていたということを知らないがゆえに,歌い手の前で無邪気な態度でいられるということです。
ところが真相はそうではありません。楽曲はここから意外な方向へと転換していくのです。
Xに対する自己満足acquiescentia in se ipsoと,Xに対する自己嫌悪humilitasは,単に反対感情であるだけでなく,ひとりの人間のうちで相反する感情であるということは明白と思います。だれも同じ事柄に対して自己満足を感じると同時に自己嫌悪も感じるということは,第三部諸感情の定義二五と第三部諸感情の定義二六からあり得ないことが明白であるからです。それがあり得るなら,その人はある事柄に対して自身の働く力agendi potentiaを表象するimaginariと同時に自身の無能力impotentiaを表象していることになり,これはそれ自体で不条理であるからです。
第三部定理一七は,愛amorと憎しみodiumは反対感情であり,かつ同時にAに対する愛とAに対する憎しみは同一の人間のうちでは相反する感情であるけれど,同じ相手に愛も憎しみも感じてしまう心情の動揺animi fluctuatioが発生し得ることを示しています。自己満足と自己嫌悪の場合は,そういう心情の動揺が生じ得るということは『エチカ』では示されていませんが,やはり生じ得ると僕は考えます。たとえばAという人間がXという事柄について自己嫌悪に陥っているとき,他の人びとがまさにXがAに属するがゆえにAのことを称賛しているのを表象するなら,AはXについて自己満足を感じ得るからです。同様に,AがYについて自己満足を感じているとき,他の人びとがYがAに属するがゆえにAのことを非難するのを表象するなら,AはYについて自己嫌悪に陥ることがあり得るからです。第三部定理一七で示されているように,喜びlaetitiaおよび悲しみtristitiaの大きさについて細かい条件を付さなければならないのですが,Xに対する自己満足とXに対する自己嫌悪が,心情の動揺を起こす場合がないわけではないということは明らかではないでしょうか。
僕が岩波文庫版のように謙遜という訳語を用いず,それを自己嫌悪と訳すのには,ここまで示してきたように,自己満足と自己嫌悪は単に反対感情であるだけでなく,相反する感情でもあるという点にひとつの理由があるのです。僕たちは謙遜というのを感情affectusとしてよりは態度としてみなすのではないかと思いますが,仮にそれを感情であるとみなしたとしても,一般に謙遜は自己嫌悪ではなく,むしろ自己満足を意味すると僕は解するのです。