スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&実践と行為

2018-03-08 18:58:43 | 将棋
 6日と7日に三瓶温泉で指された第67期王将戦七番勝負第五局。
 久保利明王将の先手で角道オープン四間飛車。豊島将之八段は相振飛車を志向する出だしでしたが後手の対応をみて居飛車に。その場の判断であったものと思います。序盤早々に先手が一歩を得しましたが,守備要因の銀を進出させてのもですから,さほど大きな得にはできなかったようです。
                                     
 6筋の突破を企てた先手に対して後手が3筋に逃げ道を作っておいて居玉を解消した局面。ここで☗7四桂と打ちましたが,☖6三飛☗同歩成☖7四銀☗5二と☖同金と進み,桂馬を取られる分だけ先手がやり過ぎだったかもしれません。もしそうであるのなら☗7四歩の方がよかったということになるでしょう。
 先手が☗7一飛と攻めの継続を図ったところで後手は☖7七歩と反撃に転じました。
                                     
 これを☗同桂と取ると7四に飛車が成ったときに自陣への利きが薄れます。なので☗同金と取ったと推測されますが,後の展開からすると☗同桂の方がよかった可能性が高そうです。
 ☖7六歩☗6七金☖7五桂☗6八金と後手は徹底してこの金に狙いをつけ,☖9五角と打ちました。
                                     
 ここで☗7四飛成と銀を取りましたが☖6七歩と打たれ,☗4八王の早逃げに☖6八歩成とと金を作りつつ金を取られては後手がはっきりとよくなりました。どうせ取られる金であるなら銀を取らずに早逃げしてしまった方が先手にとってはまだましだったのではないでしょうか。
 豊島八段が勝って2勝3敗。第六局は14日と15日です。

 他者への憎しみodiumが善bonumではあり得ないということ,そのために自由の人homo liberは,他者への憎しみから生じるその人に害悪を与えようとする欲望cupiditasと相反するような,善ではあり得ないことを忌避しまた破壊する欲望を育むべきであるということが分かりました。正確にいえばこれは自由の人であろうとするためにはそうしなければならないという意味であって,本来的な意味においては,そういう感情affectusを現に育んでいる人が自由の人といわれるのです。他人への憎しみに駆られてその人を悲しませようとする人間は,たとえそれが善ではあり得ないということを知っていて,善ではあり得ないことを忌避しまた破壊する欲望を有しているからといって,自由の人であるとはいえないのです。また,そうした欲望は,他者への憎しみを感じたときにだけ育めばよいというものではありません。おそらくそのような対症療法的な方法では,必ずや憎しみから生じる欲望に凌駕されてしまうことになるからです。ですから自由の人は,常日頃から,理性ratioに基づいて善ではあり得ないと確知される事柄に対しては,それを忌避しまた破壊する欲望を育む必要があります。そうしておけばたとえ憎しみを感じることがあったとしても,そこから生じる欲望に凌駕されてしまわないようにすることができるでしょう。
 なお.実践を単なる行為という観点からみるならば,第三部定理三九にあるように,他人に害悪を与えることによってより大なる害悪が自身に襲い掛かると表象されるなら,その人は他人に害悪を与える欲望を忌避することになるので,内容は同じです。スピノザが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で聖書を評価するときには,こうした観点が含まれているといえるでしょう。最も単純にいえば,後の刑罰に対する不安metusから他者に害悪を与えることを断念するのでも,それが善ではあり得ないという欲望の強さによって他者に害悪を与えることを断念するのでも,行為として生じる現象は同一です。ただし,前者は自由の人ではありませんが,後者は自由の人です。この関係はたとえば第四部定理六三と同じです。ですが実践の規準は自由の人としての実践なので,前者は本来的な意味での実践ではありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする