スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&正当と不当

2018-03-12 19:09:24 | 将棋
 新潟市で指された昨日の第43期棋王戦五番勝負第三局。
 渡辺明棋王の先手で角換り。先手が態度を表明する前に後手の永瀬拓矢七段が棒銀にする将棋。先手が9五への銀の進出を許す新しい作戦を披露しました。
                                     
 先手が居玉を解消した局面。ここから後手は☖7二金☗9六歩☖5二玉と進めました。すでに銀の動きで手損をしていて,さらに手損をした勘定ですが,後手から動いていく手はないために待つ必要があり,2筋と3筋が薄いのでそこから遠ざかって待つのが最善という判断だったのだろうと推測します。
 ☗5八金☖8一飛☗1六歩☖9四歩と先手は後手が待っている間に形を整えてから☗5六歩と突いていきました。
 ここから☖6二金☗5五歩☖6四歩☗5四歩☖同歩☗5三歩と先手は一直線に後手の玉頭を攻めていき☖同銀☗同桂成☖同玉で銀桂交換の駒得を果たしました。
                                     
 ここでは苦しいという後手の感想があり,実戦も第2図以下は後手が駒損を重ねていくような進展になっていますから,第2図は先手よしと結論づけてよいでしょう。この先手の作戦に対しては,後手が4五に跳ねてきた桂馬を取りにいく展開にしないと対抗できないのかもしれません。
 渡辺棋王が勝って2勝1敗。第四局は20日です。

 何が正当であり,また何が不当であるのかということが,正当ないしは不当と規定される事物のどこに着目するのかということによって決定されるということは,直ちに次のことを意味します。それは,ある事物が正当と規定されようと不当と規定されようと,その性質はその事物そのもののうちにあるのではなく,その事物を認識する側のうちにあるということです。これはちょうど,善bonumあるいは悪malumが事物の性質であるわけでなく,ある事物を善とみなしあるいは悪とみなす人間のうちにあるということと同じです。第四部定理八は,まさに善も悪も事物の性質ではなくて僕たちの認識cognitioであるということをいっていますが,これと同じことが正当あるいは不当の場合にも成立するのです。ですからある悲しみtristitiaとか憎しみodiumが正当であるとか不当であるとかいわれるとすれば,それはその悲しみや憎しみのうちに正当あるいは不当といい得るものがあるのではなくて,僕たちがどのような観点からその悲しみや憎しみを把握するのかということのうちにあるのです。
 確かに僕たちは,ある人間が悲しんでいるのを表象して,そのようなことで悲しむ必要はないと感じることがあります。これはそのように感じている人間が,悲しんでいる人間の悲しみを不当なものだと感じているという意味です。あるいは逆に,悲惨な出来事に対して平然としている人間を表象するimaginariことによって,血も涙もない人間だというように感じることもあるでしょう。これはその人間が悲しんでいないことを不当だと感じているのであり,裏を返せばその人間が悲しむのが正当であると感じているのと同じです。ですが悲しみは必然的にnecessario受動passioであり,第三部定理五一により何からどのような働きを受けるpatiのかということは人それぞれなのですから,この場合の正当や不当は,それを表象している人間の認識でしかないということは明らかでしょう。この事情も善および悪と同様であるといえます。すなわち第四部定理一九にあるように,各人は自己の本性naturaの法則に従って各人の善を希求し悪を忌避するように,各人は自己の本性の必然性necessitasによってある事柄,この場合には悲しみを正当あるいは不当と判断するのです。
コメント
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