スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

NHK杯テレビ将棋トーナメント&移行の量

2018-03-19 19:33:39 | 将棋
 第67回NHK杯の決勝は昨日の放映でした。対戦成績は山崎隆之八段が2勝,稲葉陽八段が2勝。
 振駒は歩が3枚で山崎八段の先手。稲葉八段が横歩取りに誘導しましたが先手は横歩を取らずの引き飛車。後手が横歩を取る将棋に。この将棋は中盤のねじり合いで差がついたものと思われます。
                                     
 後手が5五の角で歩を取った局面。ここから☗9五歩☖同金☗8七飛☖3三桂と進みました。
 自ら歩を突いておいて☗同香と取れずに飛車を逃げるのは変で,後手が桂馬を跳ねた手は大きそうなので,この交換は後手の方が得だったように見えます。しかし先手の狙いは金香交換の駒得を果たすことにあったのではなく,☗9二歩で香得を目指すことにあったようです。
 ここで☖9六金と出ましたが,これは失着だったかもしれません。せっかく桂馬を跳ねたのですから☖4五桂と連続で跳ねてしまうのがよかったのではないでしょうか。ここでも先手は金を取らずに☗8五飛と逃げたので,桂馬は跳ねられなくなりました。
 後手は方針を転換して飛車を攻めることに。まず☖5四飛と王手で回って☗6九王に☖8四銀と出ました。先手は☗6五飛。
 飛車がどいたので☖8六金と逃げるのは自然ですが,一手の価値としてはあまり高くなかったかもしれません。先手は取れる香車は取らずに☗3六角と飛車取りを掛けました。
 ここから☖7三桂☗6六飛☖5五角☗5四角☖6六角☗同歩☖5四歩の大捌きに進展しましたが,この手順は後手としては暴発だったかもしれません。手番の先手が☗8一飛と先着。
                                     
 これが☗4一角の王手金取りと☗8二飛成の王手銀取りの両睨みになっていて,後手としては収拾がつかない局面になっていたようです。攻め合いに転じましたが駒が足りず,先手の勝ちになっています。
 山崎八段が優勝。第54回以来13年ぶり2度目のNHK杯優勝。棋戦優勝は今年度の日本シリーズに続き8度目です。

 悲しみtristitiaは必ずしも喜びlaetitiaと比較されることによって,正当とか不当と認識されているわけではありません。これは僕たちが自分の悲しみを認識する場合にも妥当しますし,他人の悲しみを認識する場合にも妥当するのですが,ここでは主体が悲しみを感じている当人の場合についての考察を進めていきます。
 一口に悲しみといっても,大きな悲しみもあれば小さな悲しみもあります。他面からいえば強く意識される悲しみもあればさほど強くは意識されない悲しみもあります。これは悲しみの定義Definitioである第三部諸感情の定義三から明白です。なぜなら,そこでは悲しみは大なる完全性perfectioから小なる完全性への移行transitioであるとされていますが,完全性の移行transitio perfectionisというのは常に一定して生じるわけではないからです。つまり,大なる完全性から小なる完全性へ移行するといわれるとき,この移行を量的に把握するなら,大量に移行する場合もあれば少量しか移行しない場合もあるからです。どちらも移行しているのですから悲しみに違いありませんが,大量に移行すればするほどそれは大きな悲しみでありまた悲しみとして強く意識されるでしょうし,より少量にしか移行しなければしないほど,それは小さな悲しみでありまた悲しみとして強くは意識されないということになるでしょう。
 第三部諸感情の定義二は,小なる完全性から大なる完全性への移行であるといっていますから,同じことは喜びの場合も妥当します。すなわちより大量の移行が発生していればいるほどそれは大きな喜びであり,喜びとして強く意識されることになるでしょう。逆に少量にしか移行していなければいないほど,それは小さな喜びであり,喜びとして強くは意識されないことになるでしょう。
 一例として,棋士が将棋を指して勝ったときの喜びについて考えます。もしその将棋で好手を連発して快勝したという場合と,途中で悪手を指してしまいずっと苦しかったけれど,最後の最後に相手がミスをしてくれたために何とか勝つことができたという場合を比較すれば,その他の条件が等しいのであれば,おそらく前者の方が大きな喜びであり,喜びとして強く意識されることになるだろうと思われます。
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