スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

金鯱賞争奪戦・楽天カップ&要求される実践

2018-03-04 18:51:37 | 競輪
 名古屋記念の決勝。並びは菊地‐成田の東日本,高橋‐浅井‐吉田の中部,山本‐村上の京都に成清で松浦は単騎。
 菊地が前を取ってもよいという構えをみせましたが,その外から村上と山本が上昇。前受けは山本になりました。4番手に菊地,6番手に松浦,7番手に高橋で周回。残り3周のバックに入って高橋が徐に上昇。バックの出口では山本を叩くと誘導も斬って前に。松浦が4番手に切り替え,5番手に菊地。車間を大きく開けた高橋が7番手の一列棒状に。残り2周のホームに入るとそのまま高橋が発進。バックで山本を叩いたところで打鐘。山本は流れ上,成清と競る形になりましたが,ホームに入って成清が村上の後ろを確保。これをみて浅井は自力で発進。しかしバックに掛けて村上の激しい牽制があり,捲るには至らず。浅井が行ききれないとみた吉田はバックから自力発進。この捲りはものの見事に決まり,結果的に吉田マークになった松浦の差し脚を振り切って優勝。松浦が半車輪差で2着。後方からの捲り追い込みになった菊地が3車身差の3着。
 優勝した愛知の吉田敏洋選手は1月の小倉でのFⅠ以来の優勝。記念競輪は2012年の名古屋記念以来の優勝でこれが2勝目。GⅢは3勝目。このレースは村上に任された山本と,浅井と吉田を引き連れた高橋のふたりの先行意欲が高そうで,場合によっては先行争いもあり,先手を奪ったラインの方が有利になるのではないかとみていました。山本の先行になって高橋は不発でしたが,吉田の地元ということもあり浅井が迷わず自力で発進。村上がこれに併せて出るのではなくて浅井を出させないようなレースに徹したので,浅井マークの吉田にとっては有利になりました。吉田は地元なのに番手ではなく三重の浅井を間に挟んでの3番手を選択していましたから,こういうレースになることも想定のうちであったのでしょう。その意味では中部の結束が齎した吉田の優勝だったといえそうです。

 他人を憎むこと,いい換えれば現実的に存在する他人を表象するimaginariことによって悲しみtristitiaを感じることが受動的自由の範疇に入るという僕の考えが正しいとすれば,第四部定理四五は,他人を憎むなということを実践として要求する定理Propositioではあり得ないことになります。
                               
 しかしこのことは,第四部定理四五が実践として何事も要求しないという意味ではありません。というのは自由の人homo liberとして実践することが実践の規準のひとつである以上,憎しみodiumを感じたときにもまた,自由の人として実践しなければならないということは必然的にnecessario帰結するからです。これは不安metusの場合と同じで,僕たちは恐怖metusを感じたときにも自由の人として対処することが,スピノザの哲学では求められていたわけです。
 憎しみが善bonumであり得ないことを自由の人は十全に認識します。人間は理性ratioに従うなら第四部定理四五が真理veritasであるということを知ることができるからです。したがって,ある人間がだれかに対して憎しみを感じたときに,その人がそのことを理性的に判断する限り,自分は善ではあり得ない感情affectusを抱いたと理解することになります。このことは第四部定理二六から明白であるといわなければなりません。この定理でいわれていることは,自由の人のコナトゥスconatusとは,物事を十全に認識することに向かう力potentiaであるといっているのと同じであるからです。
 実践としていうなら僕はこれだけで十分であると考えます。というのは,第三部定理二八というのは僕たちが事物を表象する場合についていわれているのですが,このことは別に僕たちが事物を混乱して認識するcognoscere場合に限って妥当するというわけではなく,事物を十全に認識した場合にも成立するであろうからです。ただ第四部定理六八にあるように,現実的に存在する人間が常に理性に従うという,あり得ない仮定をした場合には,僕たちは善も悪も認識しませんから,人間が事物を十全に認識した場合に,善を希求し悪を忌避あるいは破壊するということに合致した定理は与えられていないだけです。
 よって自由の人は憎しみを感じたら,それが善ではあり得ないことを十全に認識するので,それを忌避しようとするでしょう。
コメント
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