哲学とか、世には難しい言葉が沢山あります。
しかし、実際の世の中はこれらの考え方が人生を支配しますね。
形而上学は、ま、いわば科学や物理学、数学などの「はっきり答えがある」考え方の上のから見る考え方、のようです。
例えば「私は人間である。人間は動物で、中でも霊長類で」的な事の上で「では、なぜ私は人間でなければならなかったか?」「果たして人間として存在して良かったのか?」みたいなことを考える学問なんだろうと、私は解釈しています。
私は哲学者でも何でもありませんので、それを24時間考えている訳ではありません。
が、人はかなりの時間を「何故そうなのか?」に充てざるを得ないのです。
昨日は遅い時間に若い人達の職場の悩みや人生論的な話を聞く機会がありました。
良くある話です。
「何故先輩はあの後輩の苦しみを判らないのか?」「あの上司は平気であんなことを言えるのか?」
しかし、後輩は苦しんでいるのか?上司は平気なのか?
後輩を思いやる事が良い事なのか?
後輩にとって何が正しいのか?
問いは無限です。
全ての問いの答えには「正」と「反」があります。
思いやることに救われることもあれば、余計なお世話かも知れません。
職場を去って行く友を引き留めるのは友情の様な気がします。が、実は彼にとっての「もっとやりたいこと」に向かっていく道中を邪魔してはいないか?
私は90歳の父とは仲が良くはありませんが、唯一感謝することは中学生の頃に与えられた本が「考えること」を喚起する本だったことです。
今、見えている事は正しいのか、その裏に隠れた真実は無いか、今解決しようとしていることは余計な事ではないか、別の事に切り替えたほうが良くは無いか、問いは無限です。
それらの問いに全て答えているとドンドンと無間地獄に陥ります。だって、全ての答えに「正」と「反」があるのですから・・・・・・・・
最後に行きつくのは「こんなに考え悩む自分」です。
デカルトはコギト.エルゴ.スム=我思う故に我あり、と言ったらしい。です。
私が苦しんでいること。
それ以外は判らない。
全てはそこからです。
他の人の悩みを代弁することは難しいのです。
冷たくする、事ではありません。
正と反の答えを両方並べて提示することを習慣づける。
難しいけれど、前に進むためには必要な考え方です。
な~~んて言いながら、「ホントの親友」って昔からそういうものですね。
「はいはい」「お前の言うとおり」「アイツが悪い」という親友は親友ではありません。
「阿保か!」「相手はこう言ってたぞ」と言ってくれる親友は「私の事を考える=反の意見にたどり着く」なはずです。
偉そうに・・・・ですよね。
54歳、樋口。
まだまだ未熟で考えることだらけ、ってことですね。