昨日、浅間山(せんげんやま)に登った話をしたら、
60代の柔道仲間に「浅間山なんてたいした山じゃないよ」と一蹴されてしまいました。
うーん、たしかに頂上まで2時間で往復できますから、初級の山なんでしょうけど、
あの時に感じた”怖さ”というのは、別次元のものだったなあ。
イノシシが出てくる恐怖?
それもありますけど、やはり「何かある」という妙な感覚でしょうね。
私は普段は霊感のたぐいが働く方ではないのですが、
身内に何かあった時は不思議と、何かはたらくことがあります。
おじいちゃんが亡くなった時、3歳の私は急に鼻血をダラダラ流したそうです。
また、20代の時にインドのコーチンで眠っていた時、
「アンタ、起きなさい! 起きなさい!」という母の声が聞こえたので、
胸騒ぎがして電話したら、丁度その時に祖母が倒れていたことがあります。
(その時はことなきを得ました)。
浅間山で感じた”怖さ”が、それと同じものかどうかはわかりません。
ただ、ちょっと思ったのは、仮に何かいたとして、こちらが怖さを感じたとしても、
それが必ずしも悪いものかどうかは、わからないということですね。
(でもたぶん、頂上で感じたものは”良くないもの”ですね)。
そういえば「千の風になって」という歌がありますが、
個人的にあの歌詞の元ネタは、インドの古代叙事詩「ラーマヤーナ」の後日談、
チャンカナ・シータ(黄金のシータ)から来てると思ってます。
王子ラーマが魔王ラーヴァナを倒し、
シータ姫を救い出し「めでたし、めでたし」と大団円になった、あとの話ですね。
(風の谷のナウシカのヒロイン”シータ”は、ここから来ています)。
シータが先に世を去り、風になってラーマを見守る、そんな美しいお話です。
人の肉体がなくなったあとは、完全に「無」になるという考えもありますが、
それよりは何か別の存在に変わると思った方が、おもしろいかな。
浅間山で見た景色以来、そんなことをここ数日思ったりしています。
画像はみなと荘のベランダから箱根の山をスケッチしたもの。
スケッチブックを忘れてしまったので、普通のノートとシャープペンで描きました。
60代の柔道仲間に「浅間山なんてたいした山じゃないよ」と一蹴されてしまいました。
うーん、たしかに頂上まで2時間で往復できますから、初級の山なんでしょうけど、
あの時に感じた”怖さ”というのは、別次元のものだったなあ。
イノシシが出てくる恐怖?
それもありますけど、やはり「何かある」という妙な感覚でしょうね。
私は普段は霊感のたぐいが働く方ではないのですが、
身内に何かあった時は不思議と、何かはたらくことがあります。
おじいちゃんが亡くなった時、3歳の私は急に鼻血をダラダラ流したそうです。
また、20代の時にインドのコーチンで眠っていた時、
「アンタ、起きなさい! 起きなさい!」という母の声が聞こえたので、
胸騒ぎがして電話したら、丁度その時に祖母が倒れていたことがあります。
(その時はことなきを得ました)。
浅間山で感じた”怖さ”が、それと同じものかどうかはわかりません。
ただ、ちょっと思ったのは、仮に何かいたとして、こちらが怖さを感じたとしても、
それが必ずしも悪いものかどうかは、わからないということですね。
(でもたぶん、頂上で感じたものは”良くないもの”ですね)。
そういえば「千の風になって」という歌がありますが、
個人的にあの歌詞の元ネタは、インドの古代叙事詩「ラーマヤーナ」の後日談、
チャンカナ・シータ(黄金のシータ)から来てると思ってます。
王子ラーマが魔王ラーヴァナを倒し、
シータ姫を救い出し「めでたし、めでたし」と大団円になった、あとの話ですね。
(風の谷のナウシカのヒロイン”シータ”は、ここから来ています)。
シータが先に世を去り、風になってラーマを見守る、そんな美しいお話です。
人の肉体がなくなったあとは、完全に「無」になるという考えもありますが、
それよりは何か別の存在に変わると思った方が、おもしろいかな。
浅間山で見た景色以来、そんなことをここ数日思ったりしています。
画像はみなと荘のベランダから箱根の山をスケッチしたもの。
スケッチブックを忘れてしまったので、普通のノートとシャープペンで描きました。