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漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

神戸ノート

2006年12月20日 | 記憶の扉

 神戸ノート。
 ほんの一部ではあるようだけれど、密かな話題になっているのか?

 そんな風に思ったのは、地下鉄のフリーペーパー「metro mini」に、そういう記事があったから。取り扱っている店として、吉祥寺の「36(sablo)」という店が紹介されていた。
 僕は神戸出身なので、やっぱり小学校の頃は、確かにその「神戸ノート」を使っていた。ノートなんて何でも良かったのだろうけれど、どういうわけか、「神戸ノート」を使わざるをえないような空気が、あった気がする。みんな使っていたし、ノートの提出の時など、ひとりだけ違っていると、目立ったから。それに、使い始めると、結構使いやすかった。
 「神戸ノート」を使うことは、小学校の頃の僕にはあまりに当たり前のことだったので、それが全国的に見て、ちょっと変わっているということは、これまで考えたことが無かった。だが、よくよく考えてみると、確かにちょっと変わっていたかもしれない。全国の自治体で、こんなことをやっている場所が、どれだけあるのだろう。
 それに、神戸には、「神戸体操」というものもあった。神戸の公立の中学校では、ラジオ体操のかわりに、この「神戸体操」をやっていた。整理体操なのだが、腕立て伏せとかも入っている、多少ハードなものだ。今ではもう忘れてしまったが、学生時代は、一日に一度はやらされていた気がする。

 帰りに、その「36」に寄って、「自由帳」を一冊、買って来た。
 本当は算数のノートが欲しかったのだが、そこには、3、4年生用のノートしかなかったので、全学年共通の「自由帳」にした。ただし、これもA4サイズで、僕がよく使っていたのは、B5サイズ。神戸の小学生なら、この自由長に漫画を描いていたという人も結構いると思う。だから、この白鳥の自由帳に、思い入れのある人も、結構いるんじゃないか。僕も、そうだった。ヘタクソだったが、ちゃんとコマ割りをして、描いていたっけ。

葛西臨海公園にて

2006年10月26日 | 記憶の扉

 葛西臨海公園から、房総方面を見る。
 
 この写真は、どこかJoel Meyerowitzの写真のようじゃないかな。
 そうだと言ってもらえると、嬉しいんだけど。

 Joel Meyerowitzの写真集は、一冊だけ持っている。
 僕は、彼が撮影した潮の引いた海を写した写真が好きで、時々眺める。
 乾いた色彩に惹かれるのです。
 

給水塔

2006年09月23日 | 記憶の扉

 子供の頃から、給水塔に目を惹かれる。
 僕の記憶の中には、いくつもの給水塔がある気がする。

 写真は、近所の団地の給水塔。
 古くなって、錆が浮いていて、下の方では補強もされている。
 
 給水塔は、物言わずじっと佇んでいる、「古の巨人のようなもの」のようだ。

針穴写真

2006年09月07日 | 記憶の扉


 針穴写真。「ピンホールカメラ」と言った方が、通りがいいかもしれない。
 娘の「子供の科学」に出ていたものを参考に、作ってみた。
 でも、本のものは寸法を結構間違っていて、修正しながら作るはめになった。
 きちんと写っているか心配だったが、このように、結構きれいに撮れていた。



 ピンホールカメラで撮影した写真は、どこか懐かしい香りが漂う。
 なかなか面白い。
 原理は簡単なので、今、もっと扱いやすいものを一から製作中。
 一号機はバルサ材だったが、今度は黒のイラストボードを利用している。
 数日中には完成する予定。

アスタ・ルエゴ

2006年08月30日 | 記憶の扉
 多少、興奮しています。 
 理由は、三十年近く、ずっともう一度観たかった映像を見ることができたから。
 何かというと、かつてNHKの「みんなのうた」で放映されていた「アスタ・ルエゴ」。歌は研ナオコ。彼女の麻薬スキャンダルのせいで、再放映されなくなったというものです。
 どうしてみることができたのかといえば、最近話題の「You Tube」に投稿されているのを見つけたから。
 アドレスは、
http://www.youtube.com/watch?v=hihpV6NG438
 どう考えても著作権法違反なので、いつ削除されるか分からないですが、今ならまだ見ることが出来るはずです。
 誉められた投稿ではないでしょうが、僕には本当にありがたかった。
 このサイトには、ほかにも「みんなのうた」が多数投稿されています。「キャベツUFO」とか「ポケットの中で」とか、そんなものも見ることができました。

鳳明館 森川別館

2006年07月23日 | 記憶の扉


 関西出身の僕の、中学校の時の修学旅行先は東京だった。皇居だとか国会だとか東京タワーだとか、そんな場所をぐるりと巡った。だが、不思議な疲れを覚えただけで、実際、それほど印象に残らない旅行だった。関西は、東京に比べれば確かに街としては小さいかもしれないが、そうはいっても一応、日本で有数の都会。都会から都会へ出ても、実際に暮らすというのでもなければ、さほどの印象に残るはずもない。旅行は、旅館からバスでどんどん移動に次ぐ移動といったものだった。僕はバスの中で友達のにきびを潰して遊んでいた。
 それはそうとして、その時僕らが泊まった旅館のことが、じつはずっと何となく気になっていた。確か、本郷にある「なんとか別館」とかいう古い旅館だったということは覚えていたのだが、はっきりとした名前は思い出せない。ともかく、東京という大都会に来たというのに、宿泊先はものすごく古くて雰囲気のある旅館で、建物の中がやたらと複雑だった。
 あれはどこだったのだろう。時々思い出して、気にはなっていたのだが、それまでで、ずっと捜さず二十年近く東京で暮らしていた。
 それを、今朝思い出して、ネットで調べてみた。調べてみると、すぐに分かった。「鳳明館」という旅館の「森川別館」という別館のようだ。どうせ海にゆく天気でもないし、ちょっと捜しに行ってみることにした。
 上がその写真。東大のすぐ近くにある。
 記憶にあるよりずっと古びていて(二十数年経っているのだから、なおさらだろう)、小さく感じた。でも、間違いない、ここだ。懐かしいが、感無量とか、そんなものは特にない。だが、この雰囲気は、今こそもう一度泊まってみたい気もする。ついでに、本館のほうにも足を伸ばした。「台町別館」というのも本館のすぐ前にあって、そこには「フランス柔道会」と「イタリア柔道会」の御一行様が、同時に宿泊しているようだった。この前のサッカーのことで、館内戦争になっていなければいいのだけれど。
 ところで、「森川別館」の前には、驚くべき建物がある。


 「本郷館」という、明治38年に建てられたアパートだ。木造三階建てで、現役という、すごいアパート。様々な文人を見守ってきたのだろう。
 ただし、内部は見学禁止。おっかない管理人さんが、写真を撮ろうとするだけで、注意しに来たりします。


夜はクネクネ

2006年06月14日 | 記憶の扉
 特に理由は無いのだけれど、時々ふと思い出すテレビ番組がある。
 「夜はクネクネ」という、関西ローカルの深夜放送。
 昔から僕は余りテレビを見ない方なのだが(今では、殆ど見なくなってしまった)、この番組は好きで、よく見ていた。昭和58年から昭和61年まで放送されていた。
 内容は単純で、『あのねのね』の原田伸郎と、当時深夜ラジオ「ヤングタウン」でパーソナリティーなどもやっていた角淳一というアナウンサーが、深夜の京阪神のなんでもない町をだらだらと歩き、見つけた人と話をするというだけの番組だった。要するに深夜徘徊の、成り行き任せ、行き当たりばったりという、不思議な番組だった。今、NHKでやっている「鶴瓶の家族に乾杯」(だったっけ?)の、深夜版といえば、何となく想像がつくかもしれない。そういえば、鶴瓶はそのころ「突然ガバチョ」という、やはり関西ローカルのバラエティー番組をやっていて、「夜はクネクネ」と共同の番組なども、特番でやっていたこともあった気がする。
 なぜあの番組がこれほど印象に残っているのか、よくわからないのだが、多分、当時中学生だった僕には、深夜の町が魅力的に思えたからだろう。実際、そのあと僕も散々深夜徘徊するようになったのだが、その頃の記憶と、どこかで結びついているのかもしれない。

2006年05月30日 | 記憶の扉
 子供の頃、悪いことをすると、よく蔵に閉じ込められた。
 大抵は、夜だった。
 蔵は、母屋から細い路地を抜けた庭にあった。灯りのない庭には、納屋が二つと蔵が一つ面していた。
 納屋には扉もなく、農具などが収納されていた。蔵は中で二つに分かれていて、その片方には、みかんの収穫の時などには、一面にみかんが敷き詰められた。残りの片方には、古い箪笥などが、雑然と収納されていた。
 夜、母親に叱られ、それでも大人しく寝ないでいると、抱きかかえられて、蔵に連れて行かれた。泣き叫び、梁にしがみついたが、所詮幼い子供の力だ。否応なく運ばれた。細い路地には、細い溝があり、饐えた匂いがしていた。虫の声もしたし、土の香りもした。それから、勿論月の光があった。運ばれていた時は、必死に抵抗していたのだが、今思い出すと、そうしたことがいちいち思い出せる。
 蔵に放り込まれ、必死で出ようとする体をまた奥に戻され、鍵を掛けられた。蔵の中は、その瞬間から別の世界に変わった。蔵の中には、何か恐ろしいものがいる気配がした。ごめんなさい、ごめんなさい、もうしませんと叫んでも、なかなか扉を開けてはくれない。服はパジャマで、足は素足。足の裏に、砂の乾いた感触がする。蔵のなかは、玉葱のような匂いがしていた。
 大抵は、蔵に閉じ込められていたのは、五分から十分くらいのものだっただろう。だが、叫びつかれて片隅に蹲っていると、それが何時間にも感じたものだった。最後には、ようやく出してもらえるのだが、母の背に負われて家に戻ると、まず最初にすることは、玄関先で足を濡れたタオルで拭くことだった。
 時々思い出す。
 しばらく蔵に閉じ込められていてようやく開放された時、暗闇に慣れた目には、庭が、月の光で青白く見えていた。その光景のことを。
 夜の色彩を、僕は、あの頃に覚え始めたのかもしれない。

「黙示録」 Earth Wind & Fire

2005年09月30日 | 記憶の扉
 前回に続いて、ちょっと音楽のはなし。

 中学校に入ってすぐの頃、貸レコード屋が流行り始めた。
 僕が住んでいた垂水という町にも、ドブ川に面した古いビルの二階に、「ローリングストーン」という、小さな貸レコード屋が出来た。「ローリングストーンズ」でないところが微妙だが、そこの店のマークは、もろにストーンズのマークだった。
 僕がそこの貸しレコード屋で初めて借りたレコードは、いまでもはっきりと憶えているのだが、ビートルズの初期の作品ばかりをあつめたベスト盤と、それからEarth Wind & Fireの「黙示録」だった。
 ビートルズはともかく、アースのアルバムは、どうして借りたのか、実はよく覚えていない。多分ジャケットの長岡秀星のイラストがインパクト十分だったからだろうと思う。ただ、借りて帰って「ブギ・ワンダーランド」を聴いたとき、「あ、これはよくたるせん(高架下にあるショッピングセンター)で聞く曲だ。偶然だなあ、ものすごく印象に残る曲なんだよなあ」と思ったのを憶えている。
 だから、僕が自分の意志で聞こうと思った初めての洋楽は、アースだということになるわけだ。
 このアルバムを含め、それからアースのアルバムは数枚聞いた。かなり気に入って、随分聞いたのだが、やがてパンクやニューウェーブの波に飲まれて、高校の頃には、いつしかブラックを聞くのはやめてしまっていた。ブラックをまた聞き始めたのは、マービン・ゲイの凄みに改めて打ちのめされた、二十歳を随分過ぎてからのことだ。

 久しぶりに、アースを聞いてみる。
 スピーカーから、「After The Love Is Gone」が流れ出す。
 目の前の時間が、曖昧になってゆくような気がする。

ブレーメンのおんがくたい

2005年08月30日 | 記憶の扉
 今僕が持っている本の中で、一番昔から持ちつづけている本は、いずみ書房から出ていたポケット絵本の中の一冊、「ブレーメンのおんがくたい」だ。幼稚園の頃から、ずっと持っている。
 このシリーズは、当時、毎月数冊づつのセットとして配本されるというものだった。定期的に届くこの絵本を、楽しみにしていたのを憶えている。
 この「ブレーメンのおんがくたい」は、中でも、どういうわけか一番のお気に入りだった。
 この本の絵が好きだった。例えば、このような絵。
画家の名前は「くぼたたけお」さん。どういう方なのか、情報がないから、全くわからない。インターネットで調べても、全くヒットしないのだから、出版社にでも聞くしか知る方法はないのだろう。だが、この本の絵から僕が受けた影響は、相当大きいと思う。なにせ、いまだに宝物のように持ちつづけているのだから。
こんなふうに、まるで無名の人の書いた絵や文章、奏でた音楽などが、どうしても記憶に残ってしまって、忘れられないということが、誰でもあるのではないかと思う。そういうものを、大切にしたいですね。
 ついでに、もう一枚。

隣の部屋

2005年08月24日 | 記憶の扉
 22日の分で、最後に台無しになる夢の話を再録したが、今度は実際にあった、ちょっとぞっとする話をひとつ。

 中学校に入ったばかりの頃の話だ。
 その頃、僕達の家族は、神戸の文化住宅(いわゆるアパート)に住んでいた。間取りは、六畳、四畳半、台所、それからトイレと風呂。広いベランダもあった。古い建物だったが、住み心地は悪くなかった。住民の間では毎日行き来があって、集まっては楽しくやっていた。だから、まるで長屋のような情緒があった。
 だからといって、もちろん全ての住民の間で行き来があったという訳ではない。
 僕達の隣の部屋の住人も、そうした一人だった。
 若い男性で、教師をやっているということだったから、それも当然だろう。おばさんたちの環に入って来るはずはない。

 季節は、梅雨の頃だったと思う。
 隣の部屋が、突然空き部屋になった。
 引越したのだと、僕は思った。
 それで、ドライバーを使って鍵を開け、隣の部屋に忍び込んだ。部屋には簡単に入る事が出来た。それからしばらくの期間、僕はその部屋を隠れ家にしていた。近所の友人達を誘い込んで、遊んでいた。がらんとした部屋の、畳の匂いと、梁の存在感を、いまでも覚えている。雨の日には、特にその部屋が不思議な空気に包まれていた。

 一月ほど経った頃だっただろうか。隣の部屋の先生は、隣の部屋の梁で首を縊ったのだと聞かされたのは。ノイローゼで、しばらく学校を休んでいたという。

 もちろん、それから僕は隣の部屋に忍び込むことはやめた。だが、あの部屋の湿った空気と、梁の妙な存在感は、今でも忘れられない。

デパートの夢

2005年08月22日 | 記憶の扉
 夢のはなしを、ひとつ。ただし、以前自サイトの中のエッセイとして書いたものの、再録である(やや手直しした)。高校の頃に見た夢だ。

 光化学スモッグが出ているのだろうか。少しオレンジじみた、鈍い陽射しの空がある。辺りは、風の通らない嫌な暑さだ。僕は駅から出て、煤けた色の、油じみたアスファルトを、駅に沿って歩いている。頭上には高架道路が走っている。
 大きな駅である。駅の周辺は、オフィス街なのだろうか、どこか黒っぽくくすんだ色のビルが、ずらりと並んでいる。それが、妙に暗く見える。人がいるのか、それともいないのか。おそらくは、いるのだろう。ただ、気配を感じないだけだ。人通りは多くは無いが、全く無いというわけでもない。実際、目の前をどこか疲れたような浮浪者が歩いて行くので、こちらも妙に埃っぽい気分になっている。くしゃくしゃになった新聞が、道路の端で時々揺れている。それがビル風のせいなのか、それともその下の通風孔から吹き上げてくる風のせいなのか、分からない。新聞の端が濡れて、地面に貼り付いているから、どこかへ飛んでも行かない。
 歩きながら、僕はふと、ベルトをしていなかったことに気が付く。ベルトをしていないからといって、別にズボンがずってくるというわけではない。普段からベルトをしなければならないと考えているわけでもない。でも、どういうわけかどうしてもベルトをしたいと思った。そう思い始めると、落ち着かなくなる。どこかで、なんとかして手にいれなければと思う。そう考えて、ふと見ると、近くに少し古いが、大きなデパートがあった。デパートにゆけば、当然ベルトくらいは売っているだろう。僕はデパートに向かった。
 デパートの入り口は、それほど大きくはない。デパートというよりも、例えばどこかの商工会議所のようだ。入り口を入るとすぐに階段があって、地下と二階へ伸びている。つまり一階がないわけだ。二階へ向かう階段を登ると、すぐ左手にエスカレーターがある。ベルトの売り場を探していると、どこからともなく売り子が側にやってきた。細くて、まるでまだ少女のような売り子である。彼女の髪は、サイドは肩くらいまであるのだが、後ろが妙に短い。僕はベルトの売り場を尋ねた。彼女は、それなら13階ですと言う。13階?このデパートはそんなに高かっただろうかといぶかしんだが、実際エスカレータの側の表示を見ると、確かに13階はあるということになっている。それにしても、ベルトの売り場がそんなに上の階にあるというのは、考えてもいなかった。それでも、ともかく仕方ないのでエスカレーターに乗り込む。
 そうして、デパートを登って行くのだが、8階を越えた辺りから、妙に寂しくなってくる。人もほとんどいないし、照明もどこか暗い。売っているものも、重厚な家具のようなものばかりである。売り場というよりも、まるで倉庫のようだ。そうした雰囲気は、階を上がるごとに強くなって行く。やがて13階に到着したのだが、そこはまさに家具売り場で、僕以外には誰の姿も無い。エスカレータの音ばかりが響いている。いくらなんでもこんなところにベルトが売っている訳がない。ここは家具の売り場か、さもなくば倉庫だ。僕は下りのエスカレータに向かおうとした。
  突然、声をかけられた。「何かお探しですか」
 振り返ると、そこには殆ど何の個性も無い、眼鏡をかけた痩せた男が立っている。僕はベルトを探しているのだけれど、と伝える。それならばこちらです、と彼は言う。そして指し示した場所には、沢山のベルトがある。驚いたが、まあとりあえずよかったと、僕がベルトを選んでいると、男は「このデパートには、さらに上があるのです」と言う。そう男に言われると、僕はなぜか逆らえない。この上に行かなければならないという気分になる。男が指し示したのは、フロアの隅の鉄の扉で、彼はここから上に向かうようにと僕に言った。僕は扉を開いた。そして振り返ると、当然のように男の姿は無い。
 扉の中は、一畳ほどの広さしかなく、しかもそこは和式のトイレになっている。トイレの脇に、白い鉄の螺旋階段が、ずっと上まで伸びているのだ。一応、明り取りの窓はあるのだが、見上げても、上のほうは暗くてよくわからない。僕は扉を閉じて、階段を登り始めた。
  カンカンと音を響かせながら、どのくらい登ったかわからない。相当の距離を登ったと思う。見下ろしても、出発点となったトイレはもう分からない。と、不意に、階段が終わった。そして、目の前には また、そっけない白いペンキを塗った鉄の扉が現れた。僕はノブに手をかけて、重い扉を開いた。
 そこは重厚な雰囲気の、どこか高級なホテルの客室フロアだった。広い廊下に、立派な絨毯が敷かれてある。ホテルの客室のドアも、大きくて立派なものばかりだ。重厚な、少し緑がかった木で出来ている。余りの落差に驚いたが、ふと気配を感じて振り返ると、そこにはこのデパートに入ったときに案内してくれた、あの少女のような売り子の姿があった。一体どこからここまで上がってきたのだろう。僕がそう思う間もなく、彼女は言った。「もう一階だけ、上があるのよ」
  僕は彼女の指し示す方向を見る。確かに、そこにはまたこのフロアとは似つかない、古ぼけた階段があった。階段は広かったが、油を吸い込んでいて、黒っぽく見えた。僕は憑かれたように、階段をゆっくりと上がっていった。
  その上に広がっていた光景は、窓ガラスの割れた広い部屋で、沢山の老人たちが、一心に碁を打っている姿だった。窓ガラスの向こうには、煤けた街の展望が、一面に広がっていた。

サヨナラCOLOR

2005年08月16日 | 記憶の扉
 Super Butter Dogというバンドの曲に、「サヨナラCOLOR」というのがあって、初めて聴いた時から心に沁みまくっていたのだが、最近、その曲を「原作」とした、映画が出来たようだ。監督は竹中直人さんで、主演もしている。同じようにこの曲に惚れ込んで、映画を作り上げる事を決意したという。オフィシャルサイトもある。
 だが、僕はまだ映画は見ていないし、いまこうして取り上げているのは、そのことについての感想を書きたいからではない。

 実は最近、ラジオから「サヨナラCOLOR」が流れてくるのを聴いた。
 それは、この曲の作曲者であり、現在「ハナレグミ」で活動している永積タカシさんが、新たに歌いなおしたバージョンだった。
 驚いた事に、その「ハナレグミ」バージョンの「サヨナラCOLOR」の、バックコーラスを、忌野清志郎さんがやっていた。
 聴いているうちに、なんだか感無量な気分になった。
 初めてRCサクセションを聴いた時から、もう30年近く経つ。
 清志郎さんの、後ろから叫ぶ声を聴いているうちに、様々なことを走馬灯のように思い出した。そうだ、忌野清志郎とは、こういうアーティストなんだと、そう思った。忘れてはいけない記憶。あるいは、しみったれた記憶。そうしたものが、まるで沈む太陽の光のように、後ろから照らしている気がした。

田金魚

2005年07月25日 | 記憶の扉
 お世話になっているshuさんのブログの中で、「田金魚」というものに触れたことがあります。shuさんは田金魚というものを知らないということでした。
 考えてみれば、僕らの間ではそう呼んでいただけで、それが正式な名称だかどうだか知りません。しかも、長い間見ていないから、記憶も定かでなくなりつつあります。それで、ちょっと調べて見ました。
 調べてみて、すぐにわかったのは、やはり「田金魚」というのは地域によって名称の変わる、いわゆる「通称」で、正式には「豊年エビ」というそうです。エビとはいうものの、ミジンコや、シーモンキーの仲間だとか。まあ、ミジンコだろうなとは、思っていましたが。このサイトなどが、参考になるかもしれません。
 しかし、すごいですね、その生命力は。
 子供の頃は、どこからやってくるのか不思議でしたが、なるほど、そういうことだったんですね。
 

ウサギのシロのはなし

2005年07月19日 | 記憶の扉
 seedsbookさんから「ウサギの不思議な話をして欲しい」と要望があったので、少ししてみようと思います。たいした話でもないのですが。

 「ミニウサギのシロ(実際は、ミニウサギなんてものはない)」を飼い始めたのは、中学二年の時だった。親が気まぐれに買ってきたのだ。買って来た翌日には、一メートルほどの高さなら軽く飛び越えるので、ウサギのジャンプ力は馬鹿にできないと、驚いたのを覚えている。
 初めは、床の間に柵を作ってそこで飼おうと思っていたが、二メートル近い柵を作っても、壁を蹴って飛び出してくるので、次第に諦め、家の中で放し飼いにすることになった。夜には、小さなキャリーボックスの中に閉じ込めた。
 だが、ウサギのしつけには、相当苦労した。例えばトイレ。犬や猫よりも覚えが悪いので、長い間、家にはウサギの糞が散乱する羽目になった。それに、ウサギは糞を一度また食べるので、さらに性質が悪かった。何となく、全部掃除してはいけないような気分になるではないか。
 あるとき、ふと思いついて糞をフィルムケースに集めたりした。庭の草木の肥料になるかもしれないと思ったのだ。庭では朝顔ときゅうりを育てていた。一度目の糞は、相当栄養が残っているはずだから、肥料にいいかもしれないと考えたのだ。だが、効果はよくわからなかった。そして、いつのまにかそれはやめてしまった。
 余談だが、ウサギは糞を食べる癖があるからなのか、人の耳垢の匂いが堪らないようで、耳を掃除していると寄って来て、まるで中毒患者のように、夢中になって人の耳垢を食べる。寝転んでいると、人の耳に口を突っ込んでくる。こうしたことは、あまり知っている人はいないだろうが、機会があれば試してみると面白いかもしれない。
 トイレのしつけより性質の悪かったのは、土壁を食べること、コードを齧る事、本を食べることだった。ウサギといえばにんじんのイメージがあるが、実際は、肉以外なら大抵何でも食べる。雑食もいいところなのだ。ちなみに、うちのウサギに関して言えば、ラーメンが大好きだった。さらに成長すると、年中発情しているし、男にはやたらと攻撃的だということで、非常に困った。部屋の中で放し飼いするものではないなと、つくづく思った。
 けれど、可愛いことも確かだった。寒がりだから、炬燵が大好きで、冬には中で丸くなっていた。そうした姿は、とても可愛いい。
 
 前置きが随分長くなった。
 ちょっと不思議だったことについて、書こうと思う。

 最初は、学校の授業中。
 高校の時だったが、教卓のすぐ前の席にいたとき、ふと居眠りをしてしまったのだが、その夢の中にシロが出てきて、こちらに飛び掛ってきた。はっとして、思わず手を振り・・・持っていた鉛筆が教室の隅まで飛んでいったとさ。

 次は、もう少し不思議なこと。
 家の親が金縛りにあった。
 ふと気が付くと、身体は動かず、布団の周りを牛のお化けのようなものが走り回っていた。
 余りの怖さに身体を硬くしていたら、その部屋にいたシロが、後足で思い切り威嚇の音を鳴らした。すると、そいつはすっと消えてしまった。

 最後は、シロが死んだ時。
 シロは病床にあった。もう長くないと思いつつ、僕は風呂に入っていたのだが、何だかふっと天井が高くなったような気がして、風呂を上がってシロのところに行くと、ちょうど息を引き取ったところだった。

 とまあ、ちょっと走り書きのようになりましたが、こんなところです。

 なんでもないような話でした。