つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

魂のあきらめる生き方

2018-07-04 | Weblog
貧しいものと豊かなものとの格差は広がる一方で、
他人の不幸は蜜の味と、人の厭らしが露になってきている。

どうぞ法則の道理を知ってほしい。
法則の道理は、必ず返るであり、糾える縄の如しにもあり、
隈なく公平にしてある。

人を蔑み笑うものは、何れ
人に蔑まされ笑われる。
人を殺めるものは、何れ
人に殺められ、
盗むものは、何れ
盗まれる宿命を背負う。
その宿命は、
蒔いた種であるために、やがて芽が出て花が咲き実を結ぶ。
道理は間違いないために、何もしなければ自然とその果に至る。
が、しかし、育つ過程の花咲く前のどのあたりにでも、
この道理に気が付いて、改め努力して、進んで懺悔の道に歩めば、
枝分かれした茎に綺麗な花が咲き、甘い実を宿す。
それが運命となって、宿命が消えていく。

人生は、花の一生に例えられる。儚いものである。

綺麗でも香らない花もあれば、相応香る花もあれども、
棘があったりして、容易に寄せ付けなかったりもする。
二物を与えられるものはなく、与えられているように見えているものは、
また、相応に反する事柄をも与えられる。
如何なる立ち位置にあっても、驕り高ぶり、傲慢になってはいけない。
幸せと思える立場を認識するものは、一歩間違えば、地獄を与えられやすくなっている。
自身の行為によって。

だから、献の文字を心得て身を戒め、浄めて生きなければならない。
でなければ、魂の行く先は、自らの行為によって予めることができる。

死は、人の恐怖となるものではなく、誰でも辿り着くところである。
そのために、死後の為に喜んでいけるよう、愛憐れみを持ち、
できる限り助け合って生きることである。
その先の道理は明らかである。本来、「諦める」というのである。

だから、「諦」の字は、言葉という文字に、帝王という最高の位を付けている。
諦めて(明らかにして)生きるとする。最高の称賛の文字である。

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