唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(19)論破

2017-08-14 16:21:15 | 阿頼耶識の存在論証
   僕は、家庭でも食事を頂く所に、このように手を合わすことが出来たら十分、僧堂・食堂という意味をもつのだと思います。ただ単に食事をとるところではなく、身心を養い育て、そして生きていく上で何が大切なのか、日頃からあらゆる命を頂いて、我が身を育てて頂いていることへの眼差しが育てられてくるのだと思います。できれば家にはお内仏を、食堂には、食前の言葉、食後の言葉を掲げ、手を合わせていけるようにしてゆきたいものです。
 前段は有部の主張を挙げましたが、本科段においては、有部の主張が破斥される理由を述べます。
 「無心に住せる時には、彼いい已に滅しぬる故に。過去は食に非ずということは、已に極成してしが故に。」(『論』第四・二左)
 有部の主張が否定される理由は、無心定に住している時には、無心定に入る直前の心(六識)はすでに滅しているからである。過去の心(六識)が食の体とはならないことはすでに自他ともに認められていることである。
 『述記』の釈がいいですね。
 「然らずんば無心に住せる時には已に滅して無くなりぬるが故に、現在に食無かるべし。過去は食に非ずろいうことは已に極成せるが故に。現と常とに非ざるを以て空華の如しと説きつるが故に。要ず現在の識をのみ方に食と名づくべきが故に。此れは無性の釈なり。余は世親の釈なり。」と。
 無性の釈は、無性摂論第三巻
 世親の釈は、世親摂論第三巻
 高野山奥の院で800年以上前に入定された弘法大師様はいまも五十六億七千万の暁を待って定に入っておられますが、そうしますと、どうして身を保っておられるのかということなのですが、過去の心を食とされているのかと言いますと、そうではありませんね。現在を食とされているのですね。僧侶の方々が御給仕をされているでしょう。過去は現在に属するのではなく、常という無為法であることではない、有為の世界の出来事なんですね。そういう意味では、弘法大師様は今も奥の院で今現在説法をされているのでしょう。
 入定直前の心(六識)が入定中の識食の体と成るという有部の主張は間違っていると護法さんは否定されるのです。
 現在を食とされている、過去、未来が識食の体ではなく、現在であるということは、六識を成り立たしめている根本の識が識食の体である、それが第八識なのですね。常でもなく断でもない第八識が身心を養い育てていることになるのだと教えているようです。