唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(18)論破

2017-08-12 20:42:57 | 阿頼耶識の存在論証
   興福寺伽藍と食堂(現国宝館)
 昨日は因明から有部の説を論破する一段を読ませていただきました。三支作法からですね、
 《宗》「無心位の過去や未来の識等は、食の体用が無い」
    「定の前後去・来の有漏の順益するの識は食の体用に非ざるべし。」(『述記』)
 《因》「現でも常でもないからである」
    「現常に非ざるが故に」(『述記』
 《喩》「空華の如く」
    「空華等の如くと」(『述記』
 こういう形になるかなと思います。
 次科段に移りますが、若し、過去・未来の識等に体・用があるとしても問題があると指摘します。(「自下は設ひ体・用有ると云うを許すを難ず。」(『述記』)
 「設ひ体用有りとも、現在に摂めらるるに非ざるを以て、虚空等の如く、食の性に非ざるべきが故に。」(『論』第四・二左)
 これは、仮定であって実有ではないとして論破しているのですね。
 「去来の識等は上に言う所の如し。亦食の性に非ざるべし。(宗)
 「現在に非ざるが故に」(因)
 「虚空等の如し」(喩) 以上『述記』
 次科段は「上来は世を破す。下は別して法を破す」(『述記』)つまり、有部の主張をあげて有部の主張を否定し、後にその否定される理由を述べます。
 「亦、定に入らむとする心等を、無心位の有情の与(タメ)に食と為すとは説く可からず、」(『論』第四・二左)
 「無心に住せる時には、彼いい已に滅しぬる故に。過去は食に非ずと云うことは、已に極成せしが故に。」(『論』第四・二左)

 有部の主張は「定の前の久心(クシン)は是れ食の性に非ざれども、入定に隣る心いい正しく是れ食の体なり。無心の位の有情のために食とするを以て、亦食をもって住すと名づく。」(『述記』)というのです。
 ここは「久」と「隣」をもっての主張になります。「久」は定にはいる久しい前の心、つまり六識は入定中の識食と体とはならないが、入定に隣接する心は正しく識食の体となるんだと主張をしているんですね。
 護法さんは、「また定に入ろうとする直前の心等を、無心位の有情の為の食の体と説いてはならない」と有部の主張を否定しているのです。この理由が次の科段で述べられます。過未無体を以て答えられています。明日にします。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(17)論破

2017-08-11 16:42:13 | 阿頼耶識の存在論証
  薬師寺食堂と壁画(阿弥陀三尊浄土図) 
 部派からの主張を護法さんが論破する科段になります。
 護法さんが勝手に論破するのではありません。経典の記述から、部派の矛盾点を指摘し、第八識の存在を論証しておられるのです。
 「諸の有(アルヒト)の、第八識無しと執ぜるは、何等の食に依ってか、経に是の言(ゴン)を作(ナ)して、一切の有情は、皆食に依って住すといえる。」(『論』第四・二右)
  部派の主張には二十あるといわれています、二十部派ですが、その中の有る学派の主張(第八識が存在しないと主張する学派)を論破しています。論難し破斥しているのですね。
 これ等の学派の主張は、第八識が存在しないと執着をしているが、経典の中に「一切の有情は食によって生存している」と説かれている。あなた方は何に依って食といい、何によって生存が可能なのであろうか。
 もし転識よって生存が可能であると云うのであれば、無心定の位に入ったならば、食に依らずして生存が可能なのであろうか、と問い質しています。
 つまり、意識が間断している中で、意識を支えている識が識食の体であり得るわけですね。
 意識を体とするのであれば、間断する時に有情は何に依って食としているのかということなんです。『経』に「一切の有情は皆食に依って住す」と説かれているのは、第八識をもって識食の体とすることが示されているのですね。
 次科段は薩多婆(有部)等の説を論破します。
 「無心位の過去・未来の識等をば、食と為(ス)るに非ざるべし、彼現にも恒にも非ざるを以て、空華等の如し、体用無かるべきが故に。」(『論』第四・二左)
 無心位の過去や未来の識等を食の体とするのではないであろう。何故ならば、彼(無心位の過去や未来の識等)は現でも常でもない。あたかも空華等のようである。それは体用が無いためである。
 ここで、有部の説を論破するのは、有部は三世実有・法体恒有を主張しています。つまり過去を識食の体とすることが出来るというわけです。
 『述記』(第四末・八左)には、
 「薩多婆等は無心位の中には識有ること無しと雖も、入定前の識を識食の体と為すということに何の過失か有らんや、我は過去は有りと言うが故に。」と釈しています。
 そして、過去の識等が現在の食の体になると主張をしているが、未来の識等が現在の識食の体と成るとは主張していないのですね。
 「然るに彼は食の用を起こすことは唯過(過去)・現(現在)の世なり未来世には非ず。」と。
 此れに対して、大乗の主張は現有過未無体ですから、
 「但宗法は過去を遮して食の体・用を無からしむ。但未来の食の体を遮することは、今設として未来の用をも遮するなり。此れは是れ体等有りということを許さずして難ずるなり。」(『述記』)
 「現でもなく」というのは、過去や未来の識等は現在に存在しているのでもなく、「常でもなく」というのは、無為法のように常住ではないということですね。
 空華は空中に咲いた花と言う意味ですから、幻影ですね。
 また『述記』は「量に云く」とし、因明をもって説明をしています。また明日にします。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(16)問題点を検証する。

2017-08-06 14:08:54 | 阿頼耶識の存在論証
  法隆寺食堂・細堂
 部派仏教の主張を論破する総論は先に述べましたが、本科段から個別に問題点を指摘し、前六識は識食とならないことを論証します。
 初めに先に述べました六識には間断があるという点から説明されます。
 「謂く、無心定と熟眠(ジュクメン)と悶絶と無想天との中には、間断すること有るが故に。」(『論』第四・二右)
 つまり、前六識は無心定と熟眠と悶絶と無想天の中では間断するからである。
 本頌の第十六頌を受けて説明されています。
 「意識は常に現起す。無想天に生まれたると及び無心の二定と睡眠と悶絶をば除く。」(第十六頌)
 意識が起らない時があるのは、無想天にうまれること。無想定と滅尽定の二定と睡眠と悶絶の中では間断するからである、と。そして意識が起らないと意識を依り所としている前五識は当然起こることは無いのです。
 五位無心に間断がある意識が識食の体であるとすると、間断のある時に有情の身命を維持し保持するのは如何という問いが起こってくるのは当然のことですが、本科段は、間断のある識は識食の体とはなり得ないと部派の主張を退けています。
 では、無心の時は仕方ないとして、有心の時には識食の体なり得るのかと問題について、三性等は転易するところから、有心の時でも、識食の体とはなり得ないと部派の主張を破斥します。
 「設ひ有心の位にもあれ、所依と縁と性と界と地との等きに随って転易すること有るが故に。」(『論』第四・二右)
 「所依と縁と性と界と地」とは、所依の根と所縁の境界と三性(善・悪・無記)と三界九地の等(有漏・無漏)に随って転易(変化)することが有る、転易するものは識食の体とはなり得ないと述べています。
 理由は、前六識は一つには恒有ではない。二つには転易するからである。
 そして、『述記』の説明から、
 「身・命を持するに於て三界に遍ずるに非ず。亦是れ恒に互に諸根を持するにも非ず。六種の転識は、一には恒有に非ず、二には転易なるが故に。」(『述記』第四末・八右)
 身命を維持し保持するのは、何時でも・どこでも・何があっても三界九地に偏在していなくてはなりません。それは恒有であり、転易が有ってはならないのです。それは第八識以外には無いのですね。随って、第八識をもって識食の体とするということになるのです。
 この『述記』の説明が、次科段から改めて説明されます。


阿頼耶識の存在論証に対する雑感

2017-08-03 22:33:27 | 阿頼耶識の存在論証
  
 昨日は、諸部派の現行に対する説明は前滅の意を所依とすると述べましたが、第二能変の六二縁証において詳細が述べられていますので紹介します。
 第二は六二縁証を以て第七末那識の存在を証明します。先ず経典(『世親摂論』)を引用して証拠とし、後に諸部派を論破します。この科段は初である。
 「又契経に説かく、眼と色と云はば、縁と為って眼識を生ず。広く説かば、乃至意と法といい縁と為って、意識を生ずと云う。若し此の識無くんば、彼の意いい有るに非ざるべし。」(『論』第五・十一左)
 (また『契経』に説かれる。眼(根)と色(境)とは、縁となって眼(識)を生じる。広説すれば、乃至、意(根)と法(境)とは、縁となって意識を生じる。もし、この(末那識)識が無かったならば、彼の意(意根)は存在しない。意根が存在しなかったならば、意識が生じるための意根が存在しないのであるから、意識は存在しないことになるであろう。しかし、小乗の各部派も第六意識の存在は承認しているのであり、第六意識が存在するということは、意根が存在することの証明になる。即ち末那識の存在が証明されるわけである。)
 六二縁証は、六識が生起するためには、二縁、即ち所依と所縁が必要であることから、末那識の存在を証明しようとするものです。意根という問題ですね。意根の所依はなにかという問題を通して末那識を論証しているのです。存在の構成要素は根・境・識を以て網羅しているのですね。六根・六境・六識の十八界です。そして意根は十八界の一つですね。識は、根と境とを縁として成り立つのです。根が所依となり、境が所縁となって、識が生起するわけです。五識は説明がつくわけです。眼識は眼根を所依とし、色境を所縁として成り立っているわけです。このように意識も意根を所依とし、法境を所縁として成り立っているのです。ですから意根とは何かという問題です。意根については、有部は、前滅の意識を意根とし、これを第六識の所依の根と為すと説いていますし、上座部は胸中の色法を意根と為すとしているのですが、五根は有色根で、体は色法なのですが、意根は色法ではなく法であり、意根は分別の所依なのです。
 諸部派を論破sjひますが、論破の中に四つの説が有る。初は薩婆多(説一切有部)等の説を論破する。初の句は喩である。(二は上座部、三は経量部、四はまとめて論破する。)
 「謂く、五識の如し。必ず眼と等しく増上なり。不共なり。倶有なる所依有るべし。」(『論』第五・十一左)
 (つまり、五識のように、必ず眼と等しく増上であり、不共であり、倶有である所依が有るであろう。)
 何故に、諸部派を論破し末那識の存在を証明するのは、部派は末那識の存在を認めていないので、前六識から末那識の存在を証明しようとしているのです。
 第六識も五識のように、意識が成り立つには、根と境が必要であることを喩を以て明らかにし、末那識の存在を証明しているのです。
 「意識は、既に是れ六識の中に摂めらるるをもって、理いい是の如きの所依有ると許す応し。」(因明門)
 「意識も、既に是れ六識の中に摂めらるるをもって、理いい是の如きの所依有ると許す応し。」(性相門)
 因明門による解釈は、
 「五識の如く」が同喩(宗・因・喩の三支作法のなかで、宗(主張)と因(理由)に対して同じ類としてあげられる喩)になり、宗は「(意識は)必ず眼と等しく増上なり。不共なり。倶有なる所依有るべし。」と。因は「既に是れ六識の中に摂めらるるをもって」となります。「意識は」、有法(前陳)です。因明における宗の主語の部分です。(AはBであるという主張の主語の部分)
 第六意識は、他の眼等と同じく、増上であり、不共であり、倶有である所依がある、と述べています。識が生起する為には、三つの所依が必要であると、既に述べています(第二能変・所依門)が、因縁依・倶有依・等無間縁依ですね。意識が生起する為には、末那識と阿頼耶識が倶有依になるわけです。本文の「増上」は増上縁依、即ち、倶有依のことであって、第六意識の所依は倶有依となる末那識であることをのべているのです。これを「述記」で逆次第配といっています。つまり因縁依を除外し、等無間縁依を除外することを示しています。逆説をもって末那識の存在証明をしているのです。
 「次第滅の意と及び現の本識を因縁との所依を簡ぶ。逆に次第して配すべし。此をば宗法と為す。」(「述記」)と説明があり、これは第六識は五識のように、ここからですね。「増上・不共・倶有」なる所依が有る、と述べられています。ここで述べられているのは、第六意識が生起するのは、増上縁依(倶有依)であり、因縁依ではない。そして不共である。共依は除外される。「現の本識」、即ち阿頼耶識ですね。阿頼耶識を除外する、と。「次第滅の意」を除外する。「次第滅の意」は等無間縁依(開導依)のことであり、前滅の第六識をあらわし、第六識と同時に存在するわけではないので除外されます。
•逆次第 - 果から因へと逆にさかのぼっていく順序。『述記』の記述は『論』の記述と逆の順にのべているのです。次第滅の意を除外することから、因縁の所依を除外することへ、これを「逆に次第して配すべし」と。
 (1)次第滅の意(前滅の第六識)と、
 (2)現の本識(現行している阿頼耶識)と、
 (3)因縁依(種子依)との三の所依を逆に次第して配す。
 前滅の第六識を意根としてこれを第六識の根と為すのではない、前滅の第六識は現の第六識と同時に存在するものではないから所依の根とはなり得ないのです。これをもって有部の説を論破します。次に上座部の説を論破します。上座部は色法を第六意識の所依とすると説いていますが、意根は色法ではく、もし意識が色法を所依とするならば、随念と計度の勝れた分別がなくなってしまうからです。経量部の説のように、五識には倶有所依がなく、前念の五根が後念の五識を生じ、意識も亦前念の意識が後念の意識を生ずというものでもない。五識と五根とは同時に存在し、活動すること、恰も芽と影(身と影)のようだからである。これらの法は所依の根とはなり得ないことを述べ、諸部派の主張を論破しているのです。各項目については順次述べられます。
 宗 - 「意識は」(有法・前陳)、「必ず眼と等しく増上でなり、不共でなり、倶有なる所依が有るべし」(法・後陳)
•因 - 「既に是れ六識の中に摂めらるるをもって」
•同喩 - 「五識の如く」
 有法(うほう) - 存在するもの。
 因明の三支作法(宗・因・喩の三つ。宗とは「AはBなり」という主張命題、因とは「~の故に」という、宗が成立する理由、喩とは「たとえば~の如し」という宗の正当性を裏付ける喩、という。
 この裏づけを以て、「理いい応に是の如きの所依有りと許すべし。」と、第六意識が成立するための意根は末那識であると認めるべきであると結ばれています。
 「此の識無くんば、彼が依寧んぞ有らんや。」(『論』第五・十一左)
 (此の識(末那識)が、もし存在しなかったならば、彼(第六意識)の依も、どうして存在することができようか、存在しないはずである。従って、末那識は存在するのである。)
 と。このように結ばれていますが、第七と第八の相依関係から、第八識の存在を証明していることになります。
 第二に上座部の説を論破する。
 「色を彼が所依と為すとは説くべからず、意は色に非ざるが故に、意識は随念(ずいねん)と計度(けたく)との二の分別無くなんぬ応きが故に。」(『論』第五・十二右)
 (色を第六意識の所依としてはならない。何故ならば、意根は色ではないからである。また意識に随念と計度との二つの分別がなくなってしまうからである。)
 色法が、第六意識の所依となるのではないかという問いに答えたものです。上座部は『述記』によれば、「胸中の色物を其の意根となす」と主張しています。また『演秘』には「肉摶(にくだん)の心臓の四塵の色法を意識の依と為す」と述べています。身体を所依として第六意識は成り立つというのです。この主張を論破するのがこの科段になります。
 「意は色に非ざるが故に」(意根は色法ではないから)、理由は、「七心界は皆是れ心なりと説くを以ての故に」、十二処の中の意処は、十八界の中では意界と意識界の七心界であるが、この七心界は色法ではなく心法である、と説かれている。 分別は妄分別、あるいは虚妄分別ともいう。三種の分別があり、自性分別・計度分別・随念分別である。「諸の尋・伺は必ず是れ分別なり」といわれているように、計度分別・随念分別は尋・伺の心所を体とし、尋と伺は思(意志)と慧(知恵)との両方から構成され思の働きは徐(おもむろ)で細(深い)く、慧の働きは急にして粗いことから、徐緩(おもむろにゆるやか)で深く細やかに働く意志が安住をもたらし、性急にして粗く浅く働く知恵は不安住を引き起こすと考えられました。「思うこと深ければ慧発して安心なり。正しく慧を用いれば徐なり」「思が慧に随うときは不安なり」と説かれました。また尋が麤と云われるのは欲界のみに働き、伺は初禅に通じるといわれるところから分けられているともいわれます。
 「意識は二の分別無くなんぬべきが故に」(意識には二の分別がなくなってしまう)、色法を所依として、第六意識が生起するのであれば、第六意識に備わっている随念分別と計度分別という二つの分別が備わっていないことになる。五識は色法を所依とするので自性分別の働きしか持たないからである。
 これらの理由により、色法を第六意識の所依とする上座部の説は誤りであると論破しています。従って、第六意識の所依である心法は、末那識の存在がなくては説明がつかず、末那識の存在によって第六意識が存在するのであると説明しているのです。
 六二縁証において、有部が主張する、前滅の意識を意根としてこれを第六識の所依の根とするものではない。前滅の意識は現在の意識ではなく、過去に過ぎ去った法であるから、所依の根とはなり得ないのです。又、上座部の主張するように、胸中の色法を意根とするものでもない。何故ならば、十八界中の七心界は、皆、心法であって、色法ではないからである。意識が色法を所依とするならば、随念・計度という勝れた二の分別がなし得ないことになるからである、と述べられてきました。次に経量部の説を論破します。経量部の主張は、五識には倶有所依がなく、前念の五根が後念の五識を生じるように、意識も亦前念の意識が後念の意識を生ずるのである。従って、第六意識の倶有所依になる末那識は必要がなく、前滅の意識そのものが、後念の意識が生じるための所依となる、と主張するものですが、この主張に対する論破がこの科段になります。
 「亦五識は倶有所依有ること無しと説く可からず、彼と五根とは、倶時にして而も転ずること、牙と影との如くなるが故に。」(『論』第五・十二右)
 (また、五根は倶有所依がないとは説いてはならない。何故ならば、彼(五識)と五根とは、倶時にして存在し活動することは、あたかも(牙と影)のようだからである。<牙字身字誤乎>身と影のようである。)
 経量部の説に対する護法の答えは、五根と五識は同時に存在し活動するものであるから、前滅の識が所依となり、倶有所依は必要ではないとすることは誤りであると説く。従って、第六意識も五識と同じように、倶時に存在する所依(倶有依)が必要であり、それは末那識であると述べています。
 そして、五識と五根は同時因果であり、第六意識も五識と同じように同時因果であることを述べていますが、経量部は同時因果を説くものではなく、異時因果の立場に立って、同時因果を認めていないのです。この点からも経量部の主張を論破しています。
 芽と影のようなものである、と。芽があって影が出来るというのは説明ですね。実際には同時です。異時ではないですね。これを批判しているわけです。異時ではない、同時であるうと。そうすれば意根は六識の範囲内では解けないのです。ここに大乗興起の理由があります。小乗では解けない問題が孕んでいるわけですから。六識を超えた、六識を成り立たせる識があることの問題を提起したのが意根という問題ですね。ここに末那識というものを見出して根拠があるわけです。末那識を見出してきて意根の問題に答えているのです。
 まとめはですね、
 第四に、総じて前後の説を論破する。
 「此の理趣に由って、極成の意識は、眼等の識の如く、必ず不共なり、自の名処を顕し等無間に摂められず、増上なる生所依有るべし、極成の六識に随一に摂めらるるが故に。」(『論』第五・十二右)
 (この理趣(道理)によって、第六意識は、眼等の識のように、必ず不共であり、自の名処を顕して、等無間には摂められず、増上である生所依があるであろう。極成の六識の随一に摂められるからである。)
 先に論破してきた三説を、まとめて論破します。極成とは、一般に承認されていることをいいます。小乗と大乗ともに承認している事柄です。第六意識は小乗も大乗も承認しているという意味です。この一文は『国訳』では「三支を釈す」と注釈がされています。『述記』本文から、所別不極成の過失が述べられています。第六意識が大・小乗共に承認されていることから、第六意識も他の五識と同じように、「不共」・「等無間には、摂められず」・「生所依が有る」という条件を満たしているので、第六意識の根、所依は末那識であることを論証しているのです。従って小乗諸部派の説は誤りであるとして論破しています。
•第六意識には不共の所依がある。(共依である阿頼耶識を除く)
•第六意識の所依が、「自の名処をあらわして」という。十二処中の意処に属することを指す。
•第六意識は、「等無間には摂められず」、等無間縁を除く。
•第六意識は、「増上である」、増上縁依を示し、因縁依を除く。
•「生所依である」、染浄依としての末那識ではなく、もっとも密接な関係での所依で、第六意識に対しては末那識が生所依である。
 以上が、意根の問題について部派の間違いを正しているのです。 

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(16)論破

2017-08-02 21:25:13 | 阿頼耶識の存在論証
  
 科段より、部派仏教の説を論破します。『述記』によりますと、
 「自下は第二に諸識を執して識食と為する者えお破す。中に於て四有り。一に総じて諸部を破し、二に薩婆多を破す。三に別して上座を破し、四に別して経部を破す。」(『述記』第四末・七右)
 と科門をほどこしています。 
 第一に四食について説明がありました。
 第二が部派仏教の説を論破します。それが師四つの部門を以て説明されます。
 (1) 総論です。まとめて諸部派の説を論破します。
 (2) 説一切有部の説を論破します。
 (3) 上座部の説を論破します。
 (4) 経量部の説を論破します。
 この第一が更に三つに分けて説明されます。
 (1) 総じて、六転識は五位に間断がある。三性等は転易があり、三界に遍することなく、恒時ではないという点から論破されます。理由は、六転識は身と命を保つことができないからである、と。
 (2) 間断を解釈します。
 (3) 教証をもって論破します。
 「眼等の転識は、間有り、転有り、遍ぜるにもにも恒時にも非ず。能く身命を持んや。」(『論』第四・二右)
  (眼等の転識には間断が有り(有間断)、転易があり、遍くにも、恒時にもよく身命を保つものではない。)
 ここで問題になるのは、意根です。部派は六識で有情の存在を証明しようとしますが、間断がありますと、存在そのものを維持することが出来ないのです。しかし、部派は当然このことは予期して反論を試みます。つまり、前滅の識が食の体となるというのです。
 食はよく有情の身命を保持して壊段せしめないというのが定義ですが、間断がある識が食の体であるとしますと、間断と同時に有情の身命も間断してしまうことになります。
 また、前六識は三性(善・悪・無記)のいずれにも転易する、変わり得ることがある。
 また、第六意識は三界に遍するが、前五識は色界第二禅天までにしか存在しない。つまり、三界に遍しているのではないということです。
 以上の理由から、三界に恒時に存在し、転易することなく、無間断である第八識が食の体、つまり、識食の体であると証明しているのです。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(15)界を弁ず (2)

2017-08-01 22:11:08 | 初能変 第一 熏習の義
 
 後の三食について述べます。
 「触と意と思との食は三界に遍せりと雖も、而も識に依って転ずるを以て、識に随って有無なり。」(『論』第四・二右)
 (触食と意思食は三界に存在するとはいっても、しかし、この触食や意思食は識に依って、識を依り所として働いているものであるので、識に随ってその有無がある。)
 少し論題から離れますが、地獄・極楽を死後の世界と捉えると、死後の世界なんて信じられへんという返事が返ってきますね。地獄・極楽は両極端のように聞こえますが、そうではないですね。三悪道は言葉の通じない世界だと、よくいわれます。では何故言葉が通じないのでしょう。それは自分の思いが強いからでしょうね。物差しと云うか、自己中心の天秤が、それこそ、自然に出てきてしまうのでしょう。その事を知ることに由って開かれた世界に自己を開放するのでしょうが、自分の都合に叶うか叶わないかを重要視しているのが私の姿です。
 ここで問題です。聞法の落とし穴です。結論からいいますと、自分は分かったつもりで、分かったつもりを物差しとすることです。往々にしてこのような間違いを起してしまいます。聞法をしているのだけれども、悶々としているのは何故なんだというわけです。
 外界は自己の心の投影 
 他者は自分を映し出す鏡
 他者は自分の影像
 ということが分からんですね。
 自分では気づきを得ないのですが、平気で差別をし、批判をしています。そのことを思う時、自分は世界の宰相になりたいのでしょうね。バーチャルでも自分が宰相として、世界をぶったぎっているのではありませんか。
 食とあまり関係がなさそうですが、食の本質は、阿頼耶識に触れることにあるのですね。阿頼耶識は自己を超えて、自己を成り立たしめている原理だと思います。阿頼耶識がある日突然起こってくるのではありません。生と共に、死と共に存在するものです。生死を超えて、自己を成り立たしめている原理、それが阿頼耶識ですね。
 順観では触が最初です。触の心所は有漏法です。(?)が隠されていますが、(種子)ですね。無漏法という教えに触れなかったなら、有漏を依り所としてしか生きる術はないわけです。その折の食は段食になると思います。自己の依り所が分からない中での食の事ですね。何を食しても飽食になります。千と千尋のお父さん、お母さんを思い出してみてください。あの姿です。本人は、自分の姿に気づいてはいませんね。あれが私の姿なのです。此の私の姿が、言葉を生み出し、思想を生み出してくるのです。元は、有漏の種子に依ります。
 有漏の種子が問題なわけです。そこに食の意味がある。癡に関わってくる事柄ですね。
 本科段の意味はこういう事ではないのですが、食するということは、どういう意味があるのか、私論を差し挟みました。