心豊かな人とは、合掌礼拝の出来る人なんでしょうね。そして、心貧しき人とは、合掌礼拝の出来ない人なんではと思います。合掌に始まり、合掌で終える。人として最低限の行為だと思いますが、そこには、如来は大悲を以て、寝ても覚めても四六時中、合掌礼拝してくださっているのですね。合掌礼拝は、如来のご苦労に報いる、御恩報謝になるんでしょうね。
「段等の四食に摂めざる所なるが故に。」(『論』第四・二左)
「述して曰く、声等の法の如く定んで是れ食に非ざるべし。此れは(不相応行法に)體有りというを縦(ユル)して難ずるなり。」(『述記』第四末・十右)
「縦」(ジュウ)と読む場合は、仮定の意味で使われますが、本科段での「縦」は許してという意味で使われています。仮定と承認の二つの意味が合わさっているようです。つまり、一応は有部の主張を承認して、そして論破するという方法です。
『論』の記述ではなかなか意味がつかめないのですが、『述記』の釈によって、「声などの法のように必ずこれは食ではない。これは體があるということを一応承認して論破するのである」という意味になろうかと思います。
有部の主張を一応承認してというのは、前科段でも述べられていましたように、有部の主張は不相応行法を実有であると主張しているのですね。此れに対して大乗は実有ではない仮法であるという立場をとりますから、一旦ですね、有部の主張を承認したうえで、有部の主張を論破するという方法を取っているのです。
〔宗〕 無想定などの不相応行法はその体ではない。 (不相応行く法は食の体ではない)
〔因〕 段食の四食に摂められないからである。 (実有ではないからである)
〔喩〕 声等の法の如く。 (瓶などのようなものである)
「不相応法は、実有に非ざるが故に。」(『論』第四・二左)
本科段は、無想定などの不相応行法は実有ではないと説明し、有部の主張を退けます。
また、仮法であるというのは、前回に説明した通りです。仮法は識食の体とはならないということを論証し、識
食の体と成るのは第八識であると押さえているのです。
次科段は、上座部の主張を論破します。
「段等の四食に摂めざる所なるが故に。」(『論』第四・二左)
「述して曰く、声等の法の如く定んで是れ食に非ざるべし。此れは(不相応行法に)體有りというを縦(ユル)して難ずるなり。」(『述記』第四末・十右)
「縦」(ジュウ)と読む場合は、仮定の意味で使われますが、本科段での「縦」は許してという意味で使われています。仮定と承認の二つの意味が合わさっているようです。つまり、一応は有部の主張を承認して、そして論破するという方法です。
『論』の記述ではなかなか意味がつかめないのですが、『述記』の釈によって、「声などの法のように必ずこれは食ではない。これは體があるということを一応承認して論破するのである」という意味になろうかと思います。
有部の主張を一応承認してというのは、前科段でも述べられていましたように、有部の主張は不相応行法を実有であると主張しているのですね。此れに対して大乗は実有ではない仮法であるという立場をとりますから、一旦ですね、有部の主張を承認したうえで、有部の主張を論破するという方法を取っているのです。
〔宗〕 無想定などの不相応行法はその体ではない。 (不相応行く法は食の体ではない)
〔因〕 段食の四食に摂められないからである。 (実有ではないからである)
〔喩〕 声等の法の如く。 (瓶などのようなものである)
「不相応法は、実有に非ざるが故に。」(『論』第四・二左)
本科段は、無想定などの不相応行法は実有ではないと説明し、有部の主張を退けます。
また、仮法であるというのは、前回に説明した通りです。仮法は識食の体とはならないということを論証し、識
食の体と成るのは第八識であると押さえているのです。
次科段は、上座部の主張を論破します。