唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (74) 第七、三界分別門 (11)

2015-03-28 10:53:57 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 夕陽に映し出された、桜ノ宮大川、遊歩道の桜並木、三分咲きというところです。
 
 第三の子門(第七・三界分別門の第三) 上下相縁門
 「下地の煩悩は亦上地をも縁ず。」(『論』第六・二十左) 下地の煩悩はまた上地をも縁ずるのである。先ず総論が示されます。今までは、上下相起門が説かれていましたが、本科段より上下相縁門が説かれます。上下が相い縁じることが有るのかどうかが問われてきます。つまり、下地の煩悩が上地を縁じることが有るのか、無いのか。又逆に上地の煩悩が下地を縁じることが有るのか、無いのかが問われてきます。そして、総論として本科段が述べられます。欲界の煩悩は、色界を対象として認識すると云われています。
 個別には、
 「瑜伽論等に、欲界繋(ヨッカイケ)の貪いい上地の生を求めて上定(ジョウジョウ)を昧(マイ)すと説けるが故に。」(『論』第六・二十左) 
 『瑜伽論』巻第六十二等に「欲界繋の貪は上地の生を求めて上地を味わう」(取意)と説かれているからである。
 『瑜伽論』巻第六十二(大正・30・645c)からの所論は取意になります。『述記』にも全文は記されていませんが、『樞要』(大正43・643c)には「六十二初文。説五種愛縁上者。謂或證得等至出已。計爲清淨・可欣・可樂・可愛・可意隨念愛味 或未證得。或已證得。未來愛味増上力故。進求欣樂而生愛味 或已證得計爲清淨・可欣。乃至廣説現行愛味。若從定出可生愛味。若正在定無有愛味。愛味者謂於是中遍生貪著。後文説二種。謂未得定者有染汚。謂希上生深生愛著。不染汚愛縁上定者。謂方求離欲生。廣如六十二説 。」と全文が記されています。
 『瑜伽論』本文には「謂く或は(1)等至を証得して出で已って計して清浄なり欣ぶべく楽しむべく愛すべく可意なりと為し随念し愛味し、或は(2)未だ証得せず、或は已に証得し、未来の愛味の増上力の故に追及欣楽(ツイグゴンギョウ)して愛味を生じ、或は(3)已に証得して計して清浄なり欣ぶべく楽しむべしと為し、(4)乃至広く説かば愛味を現行す。(5)若しくは定より出でて愛味を生ずべく、若しくは正に定に在りて愛味なることなし。愛味と言うは、謂く是の中に於て遍く貪著(トンジャク)を生ずるなり。」と説かれています。
  『述記』(第六本・五十一右)には「貪の上を縁ずるは、一に、勝定(ショウジョウ・すぐれた禅定)を著(或は、昧)するに由る。二に、(上地の)生を求るに由る。此れは見・修に通ず。六十二巻に五種の愛の上を縁ずることを説けり。
 今日は、諸論の記述を紹介するに留めて、内容については後日述べたいと思います。明日は、坊主BARstaff日誌です。