唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門  廃立 (9)

2015-03-05 22:29:18 | 初能変 第二 所縁行相門
  
 「設ひ実用無くとも亦彼の影を現ず。」(『論』第二・三十二左)

 設え、実の用が無くても、真如とか他人の心とか、その影を変現させるのである。ここは大円鏡智に現れてくる事柄をいっているのですね。仏には地獄の心はありませんが、無いと云って地獄を知ることが無いのかと云うとそうではなく、ちゃんとか鏡に映じているのですね。私たちが迷っていることを鏡は写し出しているということなのです。鏡が映し出しているのですから鏡の中に映じられたものに実用はありません。影なんですんね。影であって、実用はありませんが。地獄の苦しみも、迷悶している心も知っておいでになる、それが仏、如来の鏡に映しだされているということなのでしょうね。
 「今設ひ用無しと云うとも亦彼の影を現ず。即ち無と及び心等の影と無為の影等とを縁ず。無漏は親証するを以ての故に、無は是れ無なりと知るが故に無等をも『縁ずと云う。」(『述記』第三本・八十七左)
 「無は是れ無為りと知るが故に」。無は無であることを知っている。私たちは、無常を生きているんですが、無常を生きているとは言えないですね。無常を生きている、やがてはすべてが崩壊するであろう時がくるにも拘らず、一生懸命蓄財と云う鎧兜で自己防衛に務めています。疎の『背景には怖れがあるんですね。壊れたら困るというね。ここには深い問題が潜んでいます。
 一生懸命楼閣を築きあげようと努力をしていますね。別に悪いことではありません。それが一つの価値観であるんでしたら批判は出来ないと思います。今も、将来も壊れたら困ると云う怖れですね。怖れが価値観となってい一生懸命に努力を重ねていくんでしょう。
 いわば無常に逆らった生き方ですね。これも御縁なんですがね。仏法に触れる御縁です。すべては崩壊する、その中で崩壊することのないものがある、それが無常であり、無我であるという真理なんですね。私たちは、無常を生き、無我を生きている存在なんです。それが解っていません。解っていたならば仏陀ですがね。でもね、解らん儘に放置していいものではありません。解らんということが解ったということが大事なんでしょう。
 「本当に大切なもの」って何なんでしょうか。判らないのが幸せなのかもしれません。なまじ仏法に触れるときついですね。でも大事なんですがね。生涯を通して悔いることのない人生とは?何んでしょうね。それは崩壊することのない真理に触れることだと思うのですが。
 執着すべきものは無いと知る。我は空なり。無は無であり、影は影である。第八識には実用はないんですが、実用はないから働きが無いのかというとそうではなく、すべては鏡に映じているのですね。第八識本質相分という疎所縁縁です。はっきり言ってしまえば、大円鏡智は外にあるものではなく、第八識そのものが大円鏡智なんでしょう。大円鏡智が智慧の働きを持った識が阿頼耶識であると思いますね。阿頼耶識は共に苦しみ、共に悩み、共に喜び、共に怒るんです。私と共に在り、私をして彼岸に向かわしめる働きをもった識、それが阿頼耶識であると教えているんであろうと思います。