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「執受と及び処とは是れ所縁なり」
執受と及び処が所縁になります。処がまた出てきましたが、以前に処とは「処所、即ち器世間。是れ諸の有情の所依処なるが故に」と説明されていました。処は器世間である、ものの世界ですね。これが諸の有情の所依処である。処は外側の世界ですが、処という場所が私の所依処であるわけですね。依って立って生き得る場所であって、外界に存在するものというわけにはいかないように思いますね。所依処と共に生きている。そういう場所ですね、仏教では依報といいます。一人の有情は正報でといいます。ここが、「自体転じて二分に似る」というところの、自体分が転じて見分・相分に似て現ずるところの相分である、と。私の心が転じて国土を作りだしている。世界が有って私が存在するのではなく、一人一人の世界を作りださして生きている、一人一人別の世界を持っているとことになりましょう。これが器世間です。依報といわれています。器世間は外側の対象であり、執受は内側の対象であるのです。それが次の科段になります。
「執受と及び処とは是れ所縁なり」
執受と及び処が所縁になります。処がまた出てきましたが、以前に処とは「処所、即ち器世間。是れ諸の有情の所依処なるが故に」と説明されていました。処は器世間である、ものの世界ですね。これが諸の有情の所依処である。処は外側の世界ですが、処という場所が私の所依処であるわけですね。依って立って生き得る場所であって、外界に存在するものというわけにはいかないように思いますね。所依処と共に生きている。そういう場所ですね、仏教では依報といいます。一人の有情は正報でといいます。ここが、「自体転じて二分に似る」というところの、自体分が転じて見分・相分に似て現ずるところの相分である、と。私の心が転じて国土を作りだしている。世界が有って私が存在するのではなく、一人一人の世界を作りださして生きている、一人一人別の世界を持っているとことになりましょう。これが器世間です。依報といわれています。器世間は外側の対象であり、執受は内側の対象であるのです。それが次の科段になります。