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お知らせ。 来たる10月12日(日) 大阪市旭区千林(地下鉄千林大宮下車徒歩2分)の正厳寺様で「心の構造」と題して、午後3時より開講されます。有縁の方々お誘いあわせの上御聴聞くだされば有り難いことです。
また、10月15日(水)は八尾市本町(近鉄八尾駅下車徒歩10分)の聞成坊様で『成唯識論』の基礎講座を午後3時より開講されます。
今回は種子の六義と所熏・能熏の四義について考究させていただきます。
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有漏道をもっては、分別起の惑と細なる倶生起の惑は伏することはできないが、倶生起の粗い惑は伏滅することができると説かれていました。
では何故倶生起の粗い煩悩を伏することができるのかですが、本科段はこの問いに答えています。
「彼は但事に迷せり、外門(ゲモン)に依って転ず、散乱なり、麤動(ソドウ)にして、正(マサ)しく定を障(サ)うるが故に。」(『論』第六・二十右)
倶生起の粗雑な煩悩は、ただ事に迷って、外門に依って転じ、散乱である。心が定まらず動揺して、まさしく定を障碍するものだから、有漏道を以て伏することができるのである。
その理由
- 但事に迷せり(迷事の惑)、
- 外門に依って転ず、
- 散乱なり、
- 麤動にして、正しく定を障うるが故に。
但し、迷理の惑である分別起の煩悩は六行観では伏することはできない。
二番目の外門は、外に向かう門で、対象を有として、対象に迷って働くものだから伏することが出来ると説明しています。外門に依って転ずるもの(外門転)である、言い換えれば、外道から内道へは、仏法に触れると、迷いは外境に問題があるわけではなく、外境を作り上げている自身が問題であると気づいてくるわけでしょう。しかし、ここからが出発点ですね。「雑行を棄てて本願に帰す」るところから仏法の課題が新たに起こってきます。そこは迷理の惑という「見道の貪等は唯内の見等を縁じて生ずる」ことを簡ぶわけです。
そして、体は散乱状態にあり、行相は麤である為に、有漏道(六行観)で伏することができるのであると説かれています。
本科段は『述記』と『演秘』の釈を伺うことに由ってより一層はっきりしてくると思われますので、後日、尋ねてみたいと思います。