唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 (7)  安危共同

2014-10-28 23:26:13 | 初能変 第二 所縁行相門

 執受の意味を釈す。

 「此の二は皆な是れ識に執受せらる。摂して自体と為す。安危を同うするが故に。」(『論』第二・二十六右)

 「執受の義とは、安危を同ずる等なり。」(『述記』第三本・三十七右)

 此の二(種子・有根身)は阿頼耶識に維持され、「摂して自体と為し」これを自体として、阿頼耶識と安危を同じくする。種子・有根身と阿頼耶識が一体となって、一人の人間が動いていく、それは安心である時も、安心でない時も、どんな時でも一緒に動いていく。私の思いを超えて、私と共に歩んでいく働きを安危共同といわれているのですが、これは如来の働きですね。私の根底にあって、私を支え、私と運命共同体として共に動いて下さっている南無阿弥陀仏の働きでしょうね。我執の嵐が吹きすさぶ殺伐とした状態であっても、南無阿弥陀仏として私を見捨てない、どこまでもどこまでも、私を信じ、私の目覚めを待つ働きがお念仏、南無阿弥陀仏なのでしょう。私が右往左往している時にも念仏は生きている、ということではないでしょうか。そんなことが「摂して自体と為して、安危共同」というお言葉のなかから伺うことができるようです。

 そうするとですね、私の立場からですと、いつでも、いかなる時でも、念仏に逆らって生きている、傲慢ですね。生きていけると思いあがっている。この「安危共同」は、私の立場を教えてくれているようです。私の立場からですと、安という、幸せは好き、危という不幸せは嫌いやと分け隔てしています。これが分別の妄想なんでしょうね。

 阿頼耶識は私と共に、不幸な時も、幸福な時も分け隔てなく、種子と有根身、あらゆる経験と身体をもって一つとなって働いていく。現行とはこういう意味をもっているののですね。過去から今までのすべての経験と身体を包み込んで阿頼耶識は働いていく、これを執受という言葉で表しているのです。

 お念仏と共に生まれ、お念仏と共に生活し、お念仏とともに浄土に還っていく、その歩みを浄土真宗という。