唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門・重解六位心所(8) 五遍行 思の心所について

2013-02-16 22:07:02 | 心の構造について

 思の心所について説明する。

 「思は心に正因等の相を取って、善等を造作せ令む。心が起こる位に此の随一無きことは無し。故に必ず思有り」(『論』第五・二十七左)

 遍行とは何かについては巻三に詳しく説かれているところですが、ここでも巻三の説明を引用しながら歩を進めていきます。第三能変においての遍行の解き方は、何故、遍行といえるのかに論旨が委ねられています。
 思は、心に正因(解脱に向かわしめる善業の因)等の相を取り、善等を造作させる。心が起こる時に、此の善等の中の一つは無いことは無いのであって、必ず存在するのであるから、これからもわかるように、心が生起し活動するときには、思は必ず遍して活動するのである。よって思は遍行であるといえる。
 思とは意志のことです。意志決定をするということ。~にたいしてどうするのか、それを決定する心所ですね。巻三の説明をみてみましょう。
 「思と云うは、謂く心をして造作せ令むるを以って性と為し、善品等に於いて心を役するを以って業と為す。謂く能く境の正因等の相を取って、自心を驅役(くやく)して善等を造せ令むるなり」(『選註』p46)といわれています。
 良遍は「思ノ心所ハ、心ヲ善ニモ悪ニモ無記ニモ作成(つくりなす)ス心也」と簡潔に説明されています。
 仏教大辞典によりますと「心の動機づけの作用。意志の発動。身・語・意の三業をつくる心作用」と説明されています。
 そして思業・思已業という分類がされます。身口意の三業によって私たちの行為は決定されるわけですが、それが思業・思已業に分類されるわけです。思業は意業です。心の中で思っているだけの業で、種々思考することですね。それに対し、思已業は心の中に思っていることが外に現れた業といえます。身体の動作・言語の発動です。また、思業は尋求思・決定思、思已業は動発思であるといわれています。考える事と、様々な行動を起こすことです。
                尋求思
         思業 -{      }-意業(心の行為)
                決定思
                       語業(言葉の行為)
         思已業-動発思 -{
                       身業(身体の行為)
 
 まず心の行為です。全ての行為の原点になるのが意志です。意業です。意志決定を通じて動発するわけですから、如何に私たちの意志が重要であるかがわかります。
 「正因等の相」とは、『瑜伽論』巻三を引いて解しています。「此の邪と正と倶相違との行業の因相をば思に由って了別すと説けり。謂く邪正等行とは即ち身語業なり。此の行が因は即ち善悪の境なり。・・・」(『述記』)と。
 正因は善業を行わせる因となる認識対象をいう。(行因即境善悪)、邪因は悪業を行わせる因となる認識対象をさします。倶相違は無記の行為です。このように善・悪・無記の行為が意志によって決定されるということが教えられているわけです。意志が人生において如何に大事かが教えられています。悪に赴いていくならば、とことん奈落の底に沈んでしまいますでしょうし、涅槃に向かおうとするならば、そこに生きる事の意味がはっきりと見定められてくるのではないでしょうか。それを親鸞聖人は「往生極楽の道を問いきかんがためなりけり」(『歎異抄』)と見極められたのでありましょう。
 参考文献 『瑜伽論』巻三の記述
  「即ち此の邪・正・倶相違の行為(ぎょうい)の因の相は思に由って了別す。・・・思は心の造作なり。・・・思は何の業をか作すや。謂く尋伺、身語業等を発起するを業と為す。・・・」
  「 論。思令心取至故必有思 述曰。能取正因等。等者等取邪・倶相違相。如第三卷説。故是遍行。」(『述記』第六上・四左。大正43・428b)
 (「述して曰く。能く正因等を取って等とは、邪と倶相違との相を等取す、第三巻に説きしが如し、故に是れ遍行なり。」)